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IBM Personal Computer 5150 ── 開いた設計が生んだ、失われた市場

Computer History Museum に展示された1981年の IBM Personal Computer 本体・モニタ・キーボード
出典The wub (Wikimedia Commons) · CC BY-SA 4.0 · Commons で見る

メタデータ

日付
年代
1980s
Tier
T1
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06
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1981年8月12日、 IBM は「自社で最小・最廉価の計算機システム」として IBM Personal Computer を発表した。 発表資料の書き出しはそっけない。 「事務所でも、 大学の構内でも、 家庭でも、 個人用のシステムが欲しいと思ったことのある、 ほぼすべての人のための計算機である」 ── General Business Group 担当副社長 C. B. Rogers, Jr. の言葉として、 そう記されている。

機械そのものは、 当時の水準で突出したものではなかった。 突出していたのは買い方と作り方である。

発表された構成と値段

IBM Information Systems Division の発表資料は、 価格を「わずか1,565ドルから」とした。 その1,565ドルの構成は、 家庭用の最小構成 ── 本体とキーボードを、 変調器を介して家庭のテレビにつなぎ、 補助記憶はオーディオカセットである。 そこから上は次のように積み上がる。

  • 家庭・学校向けの標準的な構成(メモリ64,000バイト、 ディスケットドライブ1台、 専用ディスプレイ)で 約3,005ドル
  • 業務向けの拡張構成(カラーグラフィックス、 ディスケットドライブ2台、 プリンタ)で 約4,500ドル

標準メモリは16,384バイト、 上限は262,144バイト。 キーボードは83キーで、 6フィートのコイルケーブルにより膝の上でも使える。 マイクロプロセッサを発表資料は「高速の16ビット・マイクロプロセッサ」としか書いていない ── Intel 8088 で、 動作周波数 4.77 MHz というのは Computer History Museum の記述による。 8088 は内部16ビット・外部バス8ビットで、 より高価な 8086 を避けた選択だった。

同梱されたのは拡張版の Microsoft BASIC と操作マニュアルである。 VisiCalc・EasyWriter・Peachtree の会計ソフトは「利用可能なプログラム」として並んでおり、 同梱物ではない(IBM 自身の後年の社史はこの二つを同梱扱いで書いているが、 当日の発表資料はそう読めない)。 OS も一つではなかった。 IBM は Microsoft と組んでディスク OS を仕立て、 同時に Digital Research の CP/M-86 と SofTech の UCSD p-System の移植も契約している。 販売経路は ComputerLand、 Sears Roebuck の新しい事務機店、 IBM Product Center、 そして Data Processing Division 内の専門販売部隊。 初回出荷は10月の予定とされた。

Boca Raton ── 社内手続きの外側

この機械は、 IBM の通常の製品開発プロセスので作られた。

IBM 自身の記録によれば、 発端は1980年、 フロリダ州 Boca Raton の General Systems Division ラボ所長だった William Lowe が、 CEO Frank Cary に1,500ドルの個人用計算機を提案したことにある。 Cary は試作に1ヶ月、 製品化に1年という期限を切った。 Lowe はまもなく昇進し、 コード名 Chess のプロジェクトは Don Estridge が引き継ぐ。 Estridge は、 IBM の標準手続きを完全に外れたスカンクワークスとして進める許可を得た。 ハードウェアは Bill Sydnes、 ソフトウェアは Jack Sams、 インタフェースコードは Dave Bradley、 ディスクやプリンタを本体につなぐ ISA バスは Mark Dean と Dennis Moeller が担当した。

歴史家 James Cortada は IBM の社史でこう説明している ── 「新製品を市場に出す通常のプロセスには4〜5年かかったが、 生まれかけの PC 市場はそれを待てないほど速く動いていた」。 部品の試験を個別に行う時間はなく、 検証済みのサブアセンブリを組み合わせて完成品だけを試験した。 システムの約半分 ── 拡張バス、 ディスプレイ、 フロッピーインタフェース、 キーボード ── は既存の IBM System/23 Datamaster から流用されている。 マザーボードの設計に40日、 動く試作機まで4ヶ月。 1981年4月には製造部隊に引き渡された。

三つの決定

歴史を分けたのは、 期限を守るためにやむを得ず選ばれた三つの判断である。

既製部品を買う。 それまでの IBM は、 売るものをほぼすべて自社で設計し製造していた。 期限と1,500ドルの目標を同時に満たすには、 それを捨てるしかなかった。 プロセッサは Intel、 OS は Microsoft、 ドットマトリクスプリンタは Epson。

設計を公開する。 IBM は回路設計とソースコードを収めた技術参考資料を出版し、 他社がソフトウェアと周辺機器を作れるようにした。 発売から1年以内に750を超えるソフトウェア製品が並び、 メモリ拡張カードを売る会社が何十と現れた。

OS を独占しない。 Microsoft が納めた PC DOS 1.0 の実体は、 同社が前月に Seattle Computer Products から権利ごと買い取った 86-DOS である。 Microsoft は同じものを MS-DOS として他社にも売る権利を保持した(MS-DOS 1.0 を参照)。 この一行が、 のちに Microsoft を IBM より大きくする。

BIOS ── 唯一閉じていた場所

IBM が独占的に握ったのは、 ROM に焼かれた BIOS(Basic Input/Output System)ただ一つだった。 ここで注意が要る。 IBM は BIOS のソースリストを技術参考資料に印刷して公開している。 公開したことと、 複製を許したことは別である。 リストは著作権で保護されており、 写して使えば侵害になる。

だから互換機を作る側は、 挙動だけを再現する別の実装を、 原著作物に触れていない技術者に書かせるという手順を踏んだ。 いわゆるクリーンルーム方式である。 IBM のリストを読んだ技術者が各機能呼び出しと割り込みの仕様書を書き、 弁護士がそれを検査し、 IBM のコードを一度も見ていない別チームが仕様書だけを頼りに書き直す。

1982年2月、 Texas Instruments 出身の Rod Canion・Jim Harris・Bill Murto がヒューストンで Compaq を創業した。 目標は妥協なしの100%互換である。 Compaq Portable は1982年11月4日に発表され、 1983年3月から出荷された。 1983年、 創業後初のフル年度で 53,000台・売上1億1,100万ドル ── 当時の米国企業の初年度記録である。

Compaq が示したのは技術ではなく法的に安全な経路だった。 経路が示されれば、 それは商品になる。 Phoenix Technologies のような独立系ベンダーが互換 BIOS を誰にでも売り始め、 互換機を作ることは偉業から購買行為に変わった。

開けた市場は、 開けた者のものではなかった

その後10年、 IBM は自社 PC の処理速度を10倍に、 命令実行速度を100倍に、 メモリを16KB から16MB に、 記憶容量を1万倍に伸ばした。 IBM アーキテクチャは事実上の標準になり、 PC という語は普通名詞になった。

そして、 IBM は市場を失った。 Cortada は社史でこう述べる ── 「IBM は何百万台もの個人用計算機を売り続けたが、 時とともに PC 事業の利益は減っていった」。 同社の PC 市場シェアは1982〜83年の約80%から、 10年後には20%へ落ちた。 2005年、 IBM は PC 事業を17億5,000万ドル(現金・株式・負債の合計)で Lenovo に売却する。

因果は単純ではない。 開いた設計がなければ、 IBM PC はそもそも標準にならなかった。 標準になったからこそ、 標準を作った会社は交換可能になった。 この機械が残したのは、 一つの製品ではなく産業の形である ── 部品を買い、 仕様に従い、 価格で競う。 40年後のデータセンタもスマートフォンも、 その形の上に建っている。

出典

  1. 三次資料IBM Personal Computer — Wikipedia

    取得日: 2026-08-12

最終更新:

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