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ダートマス会議 ── 「人工知能」の命名

John McCarthy(スタンフォード大学)── 「artificial intelligence」の命名者
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メタデータ

日付
年代
1950s
Tier
T1
出典数
05
関連項目
04

1955年8月31日、John McCarthy(マッカーシー)はロックフェラー財団に対して、ある研究集会の助成申請書を書いた。冒頭はこう始まる ── 「我々は、1956年の夏、ニューハンプシャー州ハノーバーのダートマス大学において、2ヶ月・10人による人工知能の研究を実施することを提案する」。

「人工知能(Artificial Intelligence)」という言葉が、文献上確認できる限りで初めて、公式の研究計画書に登場した瞬間だった。

なぜダートマスだったか

マッカーシーは当時、ダートマス大学の数学科の助教だった。20代後半。彼が会議の場にダートマスを選んだのは、自身の所属機関だったからにすぎない。申請書に名を連ねたのは4人で、所属は次のように記されている。

  • John McCarthy(ダートマス大学)
  • Marvin Minsky(ハーバード大学)── 申請書上の肩書は「数学および神経学のハーバード・ジュニアフェロー」。プリンストンの博士論文は「Neural Nets and the Brain Model Problem」。後に MIT AI ラボを創設
  • Nathaniel RochesterIBM)── ポキプシー拠点の Manager of Information Research。申請書は彼を「IBM Type 701 の設計に共同で責任を負った」2人の技術者の一方と記す
  • Claude Shannon(ベル電話研究所)── 情報理論の創始者

研究は「学習や知能の他のあらゆる特徴は、原理的には精密に記述でき、それを機械にシミュレートさせることができる、という仮説に基づいて」進められる、と申請書は述べている。

申請書は何を提案していたのか

冒頭の段落の下に、申請書は人工知能問題の7つの側面を列挙している。70年後に読むと、これは時代の記録というより目次に近い。

  1. 自動計算機(Automatic Computers)。ボトルネックは能力ではない ──「主たる障害は機械の能力の不足ではなく、手元にあるものを最大限に活かすプログラムを書けないことである」。
  2. 計算機に言語を使わせるには。「人間の思考の大部分は、推論の規則と推測の規則に従って語を操作することから成る、と推測できる」。そして自ら認めている ──「この考えは一度も精密に定式化されたことがなく、例も作られていない」。
  3. ニューロン網。「(仮想的な)ニューロンの集合を、概念を形成するようにどう配置できるか」。先行研究として Uttley、Rashevsky のグループ、Farley と Clark、Pitts と McCulloch、および Minsky・Rochester・Holland が挙げられている。
  4. 計算量の理論。すべての答えを順に試すのは正当だが役に立たない方法であり、それを排除するには効率の基準が要る。そのためには計算装置の複雑さの尺度が要り、そのためには関数の複雑さの理論が要る ── 計算量理論が、その名を得る10年前に提案されている。
  5. 自己改善。「真に知的な機械はおそらく、自己改善と呼ぶのが最も適切な活動を行うだろう」。
  6. 抽象化。抽象の種類を分類し、感覚データその他から抽象を形成する機械的方法を記述する。
  7. ランダム性と創造性。「創造的思考と、想像力を欠いた有能な思考との違いは、いくらかのランダム性の注入にある」という推測 ── ただし自由なランダム性ではなく、直感によって導かれたもの。

4人の提案者はそれぞれ「自分は何をやるか」の文書を添えており、その4つは同じ主題の変奏ではない。Shannon は信頼できない素子による信頼できる計算、および彼が「マッチした環境 ── 脳モデル」的アプローチと呼ぶもの ── 単純なところから、モデルと環境を並行して育てる ── を提案した。Minsky は運動的抽象と感覚的抽象を対応づける機械を提案し、その結果「機械は自身の内部に、置かれた環境の抽象モデルを構築していく傾向を持つ」ようになり、行動する前に内部で解を試せるとした。Rochester は制御されたランダム性による独創性を扱い、問題全体をこう定式化した ──「どうすれば、問題解決において独創性を示す機械を作れるか」。McCarthy が選んだのは言語である。当時のいかなる形式言語も持たない英語の性質 ── 簡潔さ、普遍性、自己言及性、そして「証明の規則に加えて、英語は完全に定式化されれば推測の規則をも持つ」こと ── を列挙し、計算機が「推測と自己言及を要する問題に対して」使えるような人工言語を作りたいと書いた。1958年、彼は LISP を設計している。

予算

申請書は同時に予算書でもあり、内訳まで記されている。

項目金額
1,200ドルの給与 × 6$7,200
700ドルの大学院生給与 × 21,400
平均300ドルの旅費・宿泊費 × 82,400
秘書・運営費850
追加の旅費600
予備費550
請求総額$13,500

1,200ドルは「自身の所属機関から支援を受けていない教員級の参加者一人あたり」に対するもので、ベル研究所と IBM は自社の人員を自社で支えることが前提とされていた。つまり財団の資金はダートマスとハーバードのためのものである。

ロックフェラー財団は自らの記述によれば、この提案を 7,500ドルで支援した ── 請求額の半分をわずかに超える額であり、8人分の給与だけにも届かない。「2ヶ月・10人」という有名な一文は、最後まで資金の付かなかった計画を述べたものであって、名簿ではない。

もう一つ、届かなかった成果物がある。会期後にマッカーシーが回覧した名簿の冒頭には、名簿上の人々にはダートマス夏季プロジェクトの報告書が送られる、と書かれていた。1996年、彼は自分の文書に注記を一つ挿し込んでいる ──「報告書は作られなかった」。

誰が来る予定で、誰が来たか

1956年5月26日、マッカーシーは財団の Robert Morison に宛てて、参加予定者11名と各人の滞在期間を伝えている。全期間が Minsky、Julian Bigelow、D. M. MacKay、Ray Solomonoff、John Holland、そしてマッカーシー。4週間が Shannon、Rochester、Oliver Selfridge。最初の2週間が Allen Newell と Herbert Simon。実際には MacKay と Holland は来ず、Rochester の代わりに Trenchard More が3週間入った。同じ手紙でマッカーシーが示した議題は、集団と接触して生き残らなかった ──「我々は、概念を形成し一般化を行うよう計算機をプログラムする方法を考案する問題に集中する。これはもちろん、グループが集まった時点で変わりうる」。

会期中に姿を見せた人物には、チェッカーの学習プログラムで知られる IBM の Arthur Samuel や Tom Etter らがいる。ただし確定した参加者名簿は存在しない。マッカーシーは名簿を紛失し、会期後に作った「人工知能の問題に関心のある人々」47名のリストは、参加しなかった人物を含み、参加した全員を含んでもいない。

Logic Theorist はまだ動いていなかった

会議はおおよそ1956年6月18日から8月17日にかけて行われた。慣例的には「6週間」と言われるが、Solomonoff が会期中に取った記録では約8週間にわたる。全期間を通して滞在したのは McCarthy、Minsky、Solomonoff の3人だけで、日々のセッションに集まったのは3人から8人程度だった。

誰もが記憶している展示物は、Allen Newell・Herbert Simon・Cliff Shaw が RAND で作った Logic Theorist である ── そしてダートマスで示されたものの内容は、常に誇張されて伝わる。1956年の夏の時点で、このプログラムは機械上で動いていなかった。Newell と Simon の言い方に従えば「本質的には仕様が定まった」段階、すなわち後に IPL-I と呼ばれる言語による紙上の設計であり、その挙動は手作業のシミュレーション ── 家族や学生がプログラムの各部を演じる ── で確かめられていた。機械が実際に証明を出力するのは、1956年末から1957年初頭にかけて RAND の JOHNNIAC 上に IPL-II 実装ができてからである。

面白いのは、その設計の中身のほうだ。LT は命題論理を対象とし、代入・置換・分離という3つの推論規則と、証明候補ではなく部分問題を生成する4つのヒューリスティック手法で動く。対する素朴な方法 ── 著者らが「大英博物館アルゴリズム」と名づけた、導出可能な式を順に全部作る方法 ── については、彼ら自身の見積もりで『プリンキピア・マテマティカ』第2章の定理群の証明を生成するのに「数十万年の計算を要するだろう」とある。ヒューリスティックは保証を捨てることで速度を買う。1957年の論文はその代償にも正直で、4つの手法は十分な集合ではなく、LT がまったく証明できない定理(2.13)を著者らが見つけたと明記している。

ダートマスの逸話として語られる結果 ──『プリンキピア・マテマティカ』第2章の最初の52定理のうち38を証明し、定理 2.85 についてはホワイトヘッドとラッセルの原証明より簡潔な証明を見つけ、Simon がそれをラッセル本人に見せた ── は、この1957年の実行から出たものである。2026年3月、Jeff Shrager は Common Lisp で IPL-V インタプリタを作り直し、Stefferud による1963年の移植コードから Logic Theorist を再び走らせた。23定理中16を証明。彼の記述では、オリジナルのコードが実行されたのは半世紀ぶりだという。

一方で、この集会は統一された共同研究として運営されたわけではなく、議題は多岐にわたった。参加者の間で理論的な合意が形成された記録はない。

成果ではなく、語彙と人脈

ダートマス会議が「人工知能の誕生」と呼ばれるのは、技術ではなく、語彙と人脈の確立による。

  • 語彙: 「artificial intelligence」という呼称が公式採用された。それまでこの領域は「自動機械」「思考機械」「サイバネティクス」など、複数の呼び方が競合していた。
  • 人脈: 会議の参加者と、そこから派生したネットワークが、その後20年間の MIT、スタンフォード、CMU、IBM の AI 研究の中核を担うことになる。

1956年から1970年代半ばまでの「第一次 AI ブーム」を駆動したのは、まさにこのネットワークだった。彼らが書いた論文、彼らが指導した学生、彼らが調達した ARPA(後の DARPA)の研究費 ── これらが「AI」という学問領域を作り上げていった。

そして、第一次の冬(1970年代後半)、第二次のブーム(1980年代エキスパートシステム)、第二次の冬(1990年代前半)、そして第三次の現在進行形のブーム(2012年以降の深層学習)── そのすべての底流に、ダートマスで採用された一つの語彙が流れている。

よくある質問

ダートマス会議はいつ、どこで開かれたのか
ニューハンプシャー州ハノーバーのダートマス大学で、1956年の夏に開かれました。会期はおおよそ6月18日から8月17日です。
「人工知能」という語は誰がいつ使ったのか
1955年8月31日付の助成申請書で、John McCarthy・Marvin Minsky・Nathaniel Rochester・Claude Shannon の4名が掲げました。会議そのものより10か月早い時点です。
参加者は本当に10人・2か月だったのか
「2ヶ月・10人」は申請書に書かれた計画であって、実際の名簿ではありません。参加は入れ替わり制で、日々のセッションに集まったのは3人から8人程度でした。

出典

  1. 三次資料Dartmouth workshop — Wikipedia

    取得日: 2026-08-09

最終更新:

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