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IBM System/360 発表 ── 互換性という商品

メタデータ
- 日付
- 年代
- 1960s
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- T1
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- 06
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- 01
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1964年4月7日正午(米国東部時間)、 IBM は System/360 を発表した。 同日の Data Processing Division の報道発表は、 米国165都市で開かれた発表会に10万人以上が集まったと記す。 会長 Thomas J. Watson Jr. はポキプシーの記者会見で、 これは計算機の設計と製造における過去の考え方からの明確な決別であり、 IBM が10年ぶりに計算機の基本内部アーキテクチャを設計し直したものだ、 と述べている。
なお「同社史上もっとも重要な製品発表」という有名な一文は、 Watson の発言としてではなく報道発表の地の文として書かれている。 引用符に入れて彼の言葉として流通しているが、 一次文書はそう書いていない。
新しかったのは速度ではなく互換性
新しかったのは速度ではない。 互換性 である。
それまで、 計算機を買い替えることはソフトウェアを捨てることを意味した。 IBM 自身が5系統の互換性のない製品ラインを抱えており、 事務処理向けの 1401 と科学技術計算向けの 7040 は、 同じ会社の製品でありながら別世界だった。 顧客は「いま足りない性能」と「将来必要になる性能」のどちらに合わせて買うかを迫られ、 多くの企業はその選択を嫌って計算機を買わなかった。
System/360 はこれを一つのアーキテクチャで解いた。 同じ命令セット、 同じ入出力インタフェース、 同じ文字コード(EBCDIC)。 小型機で書いたプログラムが、 同種の入出力構成のまま上位機で動く。 いまでは当たり前に聞こえるが、 1964年にはこれが商品だった。
発表の中身
報道発表が数えているのは「モデル数」ではなく 19通り ── 中央処理装置における速度と記憶容量の組合せの数である。 周辺機器は40種類以上。 IBM の現在の社史ページはこれを「6つのプロセッサモデルと54の周辺装置」と数え、 Computer History Museum は「6機種と44の新周辺機器」とする。 数え方が資料ごとに揺れるのは、 何を1つと数えるかが揺れているからで、 発表時点の一次文書に立てば「19の組合せ」「40種類以上の周辺機器」が正しい。
型番として公表されたのは 30・40・50・60・62・70 の6つ。 性能の上下幅は約50倍、 主記憶は8,000文字から524,000文字、 これに最大800万文字のバルクコア記憶が付く。 月額レンタルは基本構成2,700ドルから大規模構成11万5,000ドル、 購入価格は13万3,000ドルから550万ドルと告知された。
回路には Solid Logic Technology と名付けた微小回路が使われた。 IBM は報道発表で、 微細化した計算機回路を基礎に設計された商用データ処理システムとしては System/360 が最初だと主張している ── これはベンダーの主張として読むべきだが、 集積回路以前のハイブリッド実装が量産機に乗った早い例であることは確かである。
50億ドルの賭け
IBM 自身の社史は、 この新製品群が既存の全製品を置き換えるものであり、 4年間で 50億ドル かかったと書いている。 1962年の同社売上は25億ドルだから、 年間売上の2倍を注ぎ込んだ計算になる。 Computer History Museum が「五十億ドルの賭け」という当時の呼び名を紹介しているのはこの比率のためで、 失敗すれば会社が消える規模だった。
出発点は1961年の SPREAD 特別委員会(Systems Programming, Research, Engineering and Development)である。 コネティカット州グリニッジのモーターホテルで非公開に会合を重ね、 IBM の記述によれば時に激しい議論を約半年続けたのち、 既存製品ラインを自ら殺す案を通した。 主任アーキテクトは Gene Amdahl、 プロジェクトを率いたのは Fred Brooks で、 IBM は Brooks が「コンピュータ・アーキテクチャ」という語を作ったとしている。
遅れと、 そこから生まれた本
賭けは市場では即座に報われた。 IBM は、 受注が予測を大きく上回り、 最初の1か月で1,000台以上が発注されたとする。 だが工程は約束どおりには進まなかった。 発表時の告知は小型構成が1965年第3四半期、 最大構成が1966年第1四半期。 実際には 30・40・50 が1965年半ばに出荷を始め、 上位の 60・62・70 は一度も出荷されないまま 65(1965年11月)と 75(1966年1月)に差し替えられた。 需要が供給を上回り、 顧客によっては数年待たされた。
より深刻だったのは基本ソフトのほうである。 OS/360 は遅れ、 想定より多くの記憶を食い、 費用は見積りを大きく超えた。 遅れを取り戻すために大量のプログラマが投入され、 それでも間に合わなかった。 この経験を書いたのが Fred Brooks の『人月の神話』(The Mythical Man-Month、 1975年)で、 遅れているソフトウェアプロジェクトに人を足すとさらに遅れる、 という主張はここから出ている。 ハードウェアの互換性という発明と、 ソフトウェア工学という分野の誕生が、 同じ製品の表と裏にある。
ソフトウェアが移動できる土地
System/360 系列は1965年から1978年まで納入が続いた。 IBM は、 1989年時点で System/360 アーキテクチャとその拡張に基づく製品が同社売上の半分以上を占めていたとする。 8ビットを1バイトとする慣行、 プログラムを資産として持ち越すという発想、 そして互換周辺機器を作る第三者産業 ── どれも、 この日の発表から数えることができる。
同時代の言語史も、 この機械の上を通っている。 Simula 67 の処理系は1969年以降 CDC 機に続いて IBM System/360 / 370 系へ移植され(1972年5月完成)、 オブジェクト指向の概念は互換ファミリの上で普及していった。 アーキテクチャを揃えるという1964年の決断は、 ハードウェアの話に見えて、 実際にはソフトウェアが移動できる土地を作る話だった。
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