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NSFNET ── 研究網が公共のインターネットになるまでの10年

1991年9月の NSFNET T1 バックボーンとリージョナルネットワークの流入トラフィック可視化。米国の地図の上に紫から白へのグラデーションの柱が立つ
出典Donna Cox and Robert Patterson, NCSA / University of Illinois; data collected by Merit Network, Inc. (Wikimedia Commons) · CC BY-SA 3.0 · Commons で見る

メタデータ

日付
年代
1980s
Tier
T1
出典数
06
関連項目
02
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ARPANET は国防総省の研究網だった。 いまのインターネットは誰でも使える公共の設備である。 この二つの間には10年の橋がかかっていて、 その橋の名を NSFNET という。 全米科学財団(National Science Foundation, NSF)が1985年に着手し、 1995年4月30日の深夜に自ら止めた基幹網である。

Merit Network の記録は、 引き継ぎの構図をこう書く ── 「全米科学財団は、 米国のインターネットを育てる責任を Advanced Research Projects Agency(ARPA)から引き継いだ」。 その責任の中身は、 網を敷くことではなく、 最後には自分の網を消すことだった。

56 kbps、 6拠点(1985〜1986年)

最初の NSFNET は、 LSI-11 の Fuzzball ルータで組まれた 56 kbps のバックボーンである。 結んだのは全国規模で資金を受けていた6つのスーパーコンピュータ拠点 ── NSF の5センタと国立大気研究センタ(NCAR)。 目的は明快で、 研究者に計算資源を届けることだった。

稼働年には資料の食い違いがある。 Merit の記録は「1985年に運用に入った」と書き、 NSF 自身の記述は「1986年に立ち上げた」とする。 プログラム自体が1985〜1986年にまたがっているためで、 どちらかが誤りというより、 何を「開始」と数えるかの違いである。 本稿はこの点を確定させない。

網はすぐに詰まった。 「網の発足直後、 トラフィックの急増が深刻な輻輳を引き起こし、 より高度なネットワーク技術の必要が示された」 ── Merit の記述である。

T1、 そして T3(1987〜1992年)

1987年、 NSF はより高速な網の提供を競争入札にかけ、 同年秋に Merit Network, Inc. と、 その提携先である MCI・IBM・ミシガン州を選んだ。 発注から8ヶ月で、 連合は13拠点を結ぶ T1(1.544 Mbps) のバックボーンを引き渡す。 拠点は Merit、 NCAR、 BARRNet、 MIDnet、 Westnet、 NorthWestNet、 SESQUINET、 SURAnet と NSF の各スーパーコンピュータセンタ。 NYSERNet と JVNCnet はセンタに併設されていたため、 やはりバックボーンの恩恵を受けた。

各拠点の Nodal Switching Subsystem は、 2本のトークンリングで結ばれた 9台の IBM RT で構成されていた。 物理回線は14本の T1 で、 その上に仮想トポロジを敷き、 各仮想経路は T1 の3分の1にあたる帯域を持つ。 1989年の再設計で各拠点が冗長接続を持ち、 ルータは T1 全速のスイッチングに対応した。 このときバックボーンの負荷は月あたり5億パケットをわずかに超えており、 1年で500%の増加、 7ヶ月ごとに倍という速度で伸びていた。

1990年5月末、 Merit と NSF の協定は T3(45 Mbps) への増速を織り込んで修正される。 拠点数は13から16へ増え、 Cambridge(NEARNET)・Argonne 国立研究所・Atlanta(SURAnet)が加わった。 基幹装置は大学やセンタから MCI の POP へ移り、 IBM RT は RS/6000 に置き換わる。 組織面では1990年9月に ANS(Advanced Network and Services)が設立され、 Merit の下請けとして運用に入った。

1991年は T1 と T3 が並走した年である。 新技術の調整は難航し、 全16拠点が ANS の全国 T3 基盤につながったのは年の終わり近くだった。 11月までに複数の拠点が T3 を主経路に切り替え、 残りのトラフィックが移ったのは1992年初頭。 Merit の評価では、 新網は「あらゆる分類の障害と誤りにおいて、 T1 構成の10倍の安定性」を示した。

営利利用を禁じた一文

技術より重かったのは規約である。

NSFNET バックボーンには Acceptable Use Policy(AUP) があり、 1992年6月版はその原則をこう書いている ── 「NSFNET バックボーンのサービスは、 米国の研究・教育機関における、 およびその相互の、 開かれた研究と教育を支援するために提供される。 これに加えて、 開かれた学術的コミュニケーションと研究に従事している営利企業の研究部門も対象とする」。 そして「認められない利用」の筆頭がこれである ── 「一般原則に該当する場合、 あるいは個別に認められた利用に該当する場合を除き、 営利目的の活動に用いること」。

つまり、 バックボーンの上で商売をしてはいけなかった。 商用のインターネット接続事業者は1980年代末から現れていたが、 彼らのトラフィックは NSFNET を通れない。 T3 への増速は、 Merit の言葉を借りれば、 技術と組織の挑戦であるだけでなく「米国インターネットの進化と商用化についての、 切実に必要だが、 論争的でもあるコミュニティ内の対話を引き起こした」。

「商用化された日」は存在しない

いつインターネットが商用のものになったのか。 一日を選ぶことはできない。 選べるのは順序である。

1992年10月23日 ── Public Law 102-476(Scientific and Advanced-Technology Act of 1992)が成立する。 その第4条は1950年 NSF 法に一項を追加した。 「本財団は、 (a)(4) の遂行にあたり、 研究・教育コミュニティによる、 科学および工学における研究・教育以外の目的にも実質的に用いられうる計算機ネットワークへのアクセスを、 育成し支援する権限を有する。 ただし、 その追加的な用途が、 当該研究・教育活動を支える当該ネットワークの全体的な能力を高める方向に働く場合に限る」。 一文の追加である。 これで AUP の法的な足場は外れた。

1992年 ── 全米科学審議会は、 同年10月に切れる Merit との協定を18ヶ月延長した。 NSF が網の運用そのものから手を引き、 商用事業者の役割を織り込んだ後継体制を設計するためである。 草案が同年に公開され、 正式な公募は1993年5月に出た。

1994年初頭 ── 発注が確定する。 Routing Arbiter は Merit と南カリフォルニア大学 ISI、 vBNS は MCI、 Network Access Point(NAP) は Sprint・MFS Datanet・Bellcore(Ameritech と PacBell の代理)の3者。 Merit には1994年5月から1995年4月までの移行期間が与えられた。

1994〜1995年 ── 最初に稼働した NAP は、 MFS が1992年から運用していたワシントン D.C. の MAE-East である。 1994年秋に 10 Mbps Ethernet から FDDI へ増速された。 Sprint の NAP は同年夏の終わりに立ち上がり、 9月に ANSnet/NSFNET・SprintLink・internetMCI が接続する。 PacBell と Ameritech の ATM NAP は装置の性能に不安が残り、 1995年3月に暫定の FDDI 構成で本番投入された。

NSF の当初計画では、 リージョナルネットワークは1994年10月31日までに NSFNET から離れるはずだった。 Merit の記録はそっけない ── 「結果として、 どのネットワークも間に合わなかった」。

4月30日、 各タイムゾーンの午前0時

1995年2月28日、 Merit の Elise Gerich は ANS 宛に、 19拠点の NSFNET バックボーンサービス終了を通告する正式な60日通知を送った。 期限はすべて 1995年4月30日、 各地の午前0時。 Palo Alto は太平洋時間の、 Ann Arbor は東部時間の、 Boulder は山岳部時間の午前0時である。

4月中旬の時点で、 バックボーンとの接続を完全に断っていたリージョナルは7つしかなかった。 到達不能な宛先を事前に洗い出すため、 Merit は4月21日に一斉のピアリング停止試験を予告する。 ところが当日未明、 経路設定変更の量が増えすぎて設定ファイルが生成中に切り詰められ、 破損することが判明した。 試験は翌日に延期される。 移行の遅れが引き起こした最後の問題は、 移行そのものの量だった。

4月25日、 15の ENSS でピアリングセッションが設定ファイルからコメントアウトされ、 NSFNET バックボーンサービスは事実上終了した。 次の日曜の深夜、 Merit と ANS の十数人がミシガン大学の NOC に集まり、 各タイムゾーンの午前0時に一つずつ ENSS を落としていった。 ある ANS の技術者の言葉として、 Merit の記録はこう残している ── 「だいたいのところ、 NSFNET は静かに消えていった。 というより、 遠くの機械室でドライブとファンが回転を落としていく音だけを残して」。

成功した設備を、 自ら廃止した

NSF 自身の記述によれば、 NSFNET につながる計算機は1986年に約2,000台、 1993年には200万台を超えた。 45 Mbps の全国網としては最初のものであり、 「すべての研究者が使える最初のネットワーク」として事実上の米国バックボーンになった。

そして NSF は、 その成功した設備を廃止した。 バックボーンは internetMCI と SprintLink がリージョナルを顧客として引き受ける形で民間へ移り、 経路情報は Policy Routing Database から Internet Routing Registry の各データベースへ移った。 World Wide Web が一般に広がるのはこの直後である ── 公共インターネットという土台が、 ちょうど間に合っていた。

政府が作り、 政府が引き渡した網。 これを民営化の成功例と読むこともできるし、 十年にわたる公的資金なしには何も始まらなかったと読むこともできる。 どちらの読み方も、 同じ一次資料から出てくる。

出典

  1. 三次資料National Science Foundation Network — Wikipedia

    取得日: 2026-08-12

最終更新:

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