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量子情報科学にチューリング賞 ── 2025年度を Bennett と Brassard が受賞

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2026年3月18日、 ACM(Association for Computing Machinery)は 2025年度 の A.M. チューリング賞を、 IBM Research の Charles H. Bennett とモントリオール大学の Gilles Brassard に授与すると発表した。
まず呼称を整理しておく。 この賞は 2025年度の賞 であり、 2026年3月18日に発表 された。 チューリング賞は対象年の翌春に受賞者が公表されるため、 「2025年の賞」と「2026年の発表」が同じ出来事を指す。 報道では両方の年が見出しに立つので混乱しやすい。 本サイトは他の賞と同じく、 発表日でこのイベントを年表に置いている。
授賞理由は、 ACM の発表文によれば「量子情報科学の基礎を確立し、 安全な通信と計算を変革したことにおける本質的な役割に対して」(for their essential role in establishing the foundations of quantum information science and transforming secure communication and computing)。 賞金は100万ドルで、 Google が資金を拠出している。 IBM は自社のニュースルームで、 2025年度の賞は ACM にとって量子研究に関わる最初のチューリング賞である と述べた。
BB84 ── 計算量の仮定を捨てる
授賞理由の中心にあるのは、 1984年12月にインド・バンガロールの国際会議で発表された論文 "Quantum Cryptography: Public Key Distribution and Coin Tossing" である。 著者2人の頭文字と年から BB84 と呼ばれる。 ACM の発表文は、 二人が「亡き共同研究者 Stephen Wiesner の洞察に触発されて」この最初の実用的な量子暗号プロトコルを導入した、 と経緯を明記している。
BB84 の要点は、 安全性の根拠をどこに置くかにある。 ACM の発表文はその対比を明示的に組み立てている ── 1949年に Claude Shannon が、 完全な秘匿は「あらかじめ共有された、 メッセージと同じ長さ以上の秘密鍵」がある場合にしか成立しないと証明した。 公開鍵暗号はこの制約に対する強力な迂回路を与えたが、 その安全性は「解くのが難しいと信じられている数学的問題」の上に立っている。 そして1994年、 Peter Shor は、 フルサイズの量子計算機が手に入ればその仮定が崩れることを示した。
BB84 は仮定を置かない。 拠り所は量子情報の物理的な性質そのもの ── 観測や複製をすれば必ず擾乱が残る。 したがって盗聴の試みは、 情報が漏れる前に痕跡として検出できる。 計算能力が無制限の相手であっても、 その相手が量子計算機を持っていても、 この論法は変わらない。 情報理論的安全性と呼ばれる水準である。
この性質は理論上の話に留まらなかった。 BB84 の変種は、 光ファイバの地上回線と衛星による自由空間通信の双方で、 実運用の量子通信網に実装されている。
1989年、 2メートルの装置
BB84 は紙の上のプロトコルとして終わらなかった。 IBM のニュースルームによれば、 Bennett と当時サマースチューデントだった John Smolin(現在は IBM の研究者)が Bennett の執務室で最初の量子暗号装置を組み、 Brassard も加わって 1989年に BB84 の最初の実演 を行った。 装置は鏡・偏光子・光子検出器で作った長さ2メートルの自作品で、 動かすソフトウェアは Brassard と彼の学生が書いた。
二人が出会ったのは1979年、 プエルトリコで開かれた計算機科学の会議である。 Brassard は当時、 公開鍵暗号の安全性証明に関わる「オラクル」の理論的存在を博士論文で示したところだった。 1982年には Wiesner を交えて最初の量子暗号論文を共著し、 その2年後が BB84 になる。
テレポーテーションと蒸留
授賞理由は暗号だけではない。
量子テレポーテーション(1993年)。 Bennett と Brassard は共同研究者らとともに、 未知の量子状態を、 量子もつれ(エンタングルメント)と古典通信を組み合わせて離れた場所へ転送できることを示した。 ACM の発表文は、 これによってエンタングルメントが「主として哲学的な珍奇」と見られていた地位から実用的な資源へ移った、 と位置づけている。 関連する現象の実験的検証は、 2022年のノーベル物理学賞の対象となった。
エンタングルメント蒸留(1996年)。 不完全なエンタングルメントを、 より質の高いエンタングルメントへと強めるやり方を示した仕事である。 量子中継器と量子ネットワーク ── 究極的には「量子インターネット」 ── を大規模化するうえで不可欠の一段になっている。
ACM は、 二人の40年にわたる協業が物理学と計算機科学という別々の学問を橋渡しし、 暗号だけでなくアルゴリズム設計・計算複雑性・学習理論・対話型証明・数理物理にまで影響したと総括している。
受賞者
Charles H. Bennett はアメリカの物理学者。 Brandeis 大学で学士、 Harvard 大学で博士を取得し、 1970年代前半から IBM Research に在籍している(ACM は1973年入社、 IBM 自身が公開している写真の説明文は1972年と記しており、 資料により1年の揺れがある)。 IBM に彼を誘ったのは、 情報は抽象物ではなく物理量だと論じた Rolf Landauer だった。 Bennett は1973年に計算の論理的可逆性に関する論文を書き、 計算が必ずしもエネルギー散逸と結びつかないことを示している。 Wolf 賞(物理学)、 Micius 量子賞、 BBVA Frontiers of Knowledge 賞、 Breakthrough 賞(基礎物理学)の受賞者で、 米国科学アカデミー会員、 王立協会外国人会員。 IBM は、 彼が賞金の一部を寄付する意向だとしている。 IBM 所属のチューリング賞受賞者としては7人目にあたる。
Gilles Brassard はカナダの計算機科学者。 モントリオール大学で学士・修士、 Cornell 大学で1979年に理論計算機科学の博士号を取得した。 指導教員は1986年のチューリング賞受賞者 John E. Hopcroft である。 その後まもなくモントリオール大学の教員となり、 2001年から2021年まで Canada Research Chair を務めた。 カナダ勲章オフィサー、 ケベック国家勲章オフィサー、 王立協会フェロー。 モントリオール大学は、 彼が1966年の創設以来 8人目 のカナダ人受賞者であり、 同大学としては2018年の Yoshua Bengio に続く2人目の受賞者だと述べている。
40年前の論文が、 まだ論争の当事者である
受賞は、 国連が2025年を「量子科学技術国際年」と定めた直後に来た。 ACM 会長の Yannis Ioannidis は発表文でこう述べている ── 「Bennett と Brassard は、 情報そのものについての我々の理解を根本から変えた。 彼らの洞察は計算の境界を押し広げ、 諸分野にまたがる数十年の発見を動かした」。
Brassard 自身の反応は、 祝辞よりも警告に寄っていた。 モントリオール大学の記事で彼はこう語っている。
Il faut se réveiller et cesser de nous fier uniquement à une infrastructure cryptographique obsolète qui est censée nous protéger, mais dont nous savons depuis 1994 qu'elle s'effondrera dès qu'un ordinateur quantique à pleine puissance sera disponible.
(訳: 目を覚まし、 我々を守るはずでありながら1994年以来「フルパワーの量子計算機が手に入った瞬間に崩れる」と分かっている旧式の暗号基盤だけに頼るのを、 やめなければならない。)
ここには微妙な論点がある。 量子計算機に耐える方向として現実に動いているのは、 量子鍵配送よりも 耐量子計算機暗号(PQC) ── 古典的なアルゴリズムの置き換え ── である。 ACM の発表文自身、 その古典的手法を「量子耐性があることが望まれる(hopefully quantum-resistant)」「安全性の証明は知られていない」と書いて、 BB84 の情報理論的安全性と対置している。 40年前の論文が今なお現役の論争の当事者であること自体が、 この授賞の理由をよく説明している。
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