人物 :: PERSON
ダグラス・エンゲルバート
マウスの発明者として知られるが、本人の主題は一貫して「人間の知性を増強する」ことだった。1925年オレゴン州ポートランド生まれ。第二次大戦中に海軍のレーダー技師としてフィリピンに従軍し、そこで Vannevar Bush の論考に触れる。1957年に Stanford Research Institute(SRI)へ加わり、1962年の報告書「Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework」で枠組みを示した。1963年ごろ立ち上げた Augmentation Research Center(ARC)で NLS を開発し、1968年12月9日のサンフランシスコでの実演でマウス・ウィンドウ・リンク・画面共有を一度に見せる。ARC は1969年に ARPANET の2番目のホストとなり、Network Information Center を担った。1997年 ACM Turing 賞、2000年 米国国家技術賞。2013年没。

プロフィール
- 生年
- 1925
- 没年
- 2013
- 在世
- 88 年
- 関連事象
- 01
- 名称
- ENDouglas EngelbartJAダグラス・エンゲルバート
ダグラス・エンゲルバート(Douglas Carl Engelbart、 1925年1月30日 オレゴン州ポートランド生 ── 2013年7月2日 カリフォルニア州アサートン没)は、 一般にはマウスの発明者として記憶されている。 だが本人の経歴を順に追うと、 マウスは長い道のりの途中に置かれた一つの部品にすぎない。 25歳で「人類が複雑で緊急な問題に立ち向かう能力そのものを引き上げる」ことを生涯の目標に定め、 その目標のために学位を取り直し、 誰も資金を出さない時期を耐え、 研究所を作り、 研究所を失い、 晩年は小さな非営利組織からその考えを説き続けた。 このページはその道のりを扱う。 1968年の公開実演と、 マウスを実際に組み上げた技術者については、 それぞれ専用のページがある。
1945年、 レイテ島の赤十字図書室
1942年にポートランドの Franklin 高校を卒業し、 オレゴン州立大学に進む。 在学の途中、 1944年から1946年まで海軍に入り、 レーダー技術者としての訓練を受けた。 太平洋へ向かう輸送船がサンフランシスコの埠頭を離れた日、 船内放送が日本の降伏を告げた ── 本人の回想では、 それが対日戦勝の日だった。 戦争は終わったが船はそのまま進み、 38日かけてサマール島の南端に着く。 数週間の待機ののち、 再配置のためにレイテ島へ移された。
その仮の宿営地に、 高床式で草葺き屋根の小屋を使った赤十字の図書室があった。 誰もいない室内で彼は Vannevar Bush の「As We May Think」を読む。 本人は Life 誌で読んだと記憶しており、 聞き手が The Atlantic への掲載は1945年の夏の終わりだと指摘すると、 現地は9月初めだったはずだから雑誌が届くには早すぎる、 と首をかしげている。 いずれにせよ、 人の作業と思考を助けるという構想全体に心が躍ったことを、 彼は40年後も覚えていた。 その後の配属先はマニラ周辺を管轄する海軍司令部(Philippine Sea Frontier)の通信センターで、 約1年後に帰国した。
ただし本人は、 この時期の自分をまだ「漂っていた」と形容している。 Bush の論考はすぐに進路を決めたのではなく、 何年もあとに自分の枠組みを書き始めたとき、 そこに合流してきた材料の一つだった。
1950年12月、 婚約の翌朝の通勤路
1948年に電気工学の学士を取ると、 国家航空諮問委員会(NACA)の Ames 研究所に電気技術者として就職する。 風洞の制御系や構内放送の設置・保守、 研究者から頼まれた電子機器の製作を受け持つ支援部門で、 本人は後に、 何かを創り出したいという野心を持つ人間が選ぶ仕事ではなかったと振り返っている。 この Ames で、 のちの妻 Ballard Fish に出会う。
転機は婚約の直後に来た。 1950年12月10日か11日、 車で出勤する30分ほどのあいだに、 結婚して幸せに暮らすことが自分に残された最後の目標であり、 その先に何の目標も無いと気づいた。 25歳だった。 その晩から彼は職業上の目標を意図的に探し始める。 条件は二つに絞った ── 人類のためにできる善を最大にすること、 そして暮らせるだけの収入があること。
候補を検討するうちに、 彼は一つの見方にたどり着く。 マラリアを駆逐した地域で人口が急増し、 土壌が荒れて再び飢えが来る ── そうした副作用の例を思い出しながら、 世界の問題は複雑さを増し、 解決に使える時間は短くなっていると考えた。 複雑さと緊急さの積が、 人間の組織が扱える限界を超えつつある。 ならば人間がそれに対処する能力そのものを高めれば、 根本的な貢献になる。
本人の回想では、 そこから1時間ほどのうちに、 大きな CRT 画面の前に座り、 新しい記号を画面上で操り、 レバーやボタンで計算機を動かしている自分の姿が浮かんだ。 画面に任意の記号を描けるという知識も、 つまみを回して画面上の輝点を動かす操作感も、 海軍のレーダー訓練から来ていた。 さらに数時間のうちに、 別の部屋にいる同僚が同じ計算機につながった端末から作業を共有する光景まで見えたという。 計算機の仕組みはまだ知らなかった。 ただ、 計算ができるならこれもできるはずだと確信していた。
1951年5月5日に結婚。 まもなく Ames を辞め、 大学院へ向かう。
バークレーと、 閉じた三つの扉
スタンフォードとバークレーの両方に出願し、 両方に受け入れられた。 決め手は、 バークレーでは Paul Morton の率いる海軍出資の計算機建造プロジェクトがすでに動いていたことだった。 磁気ドラム記憶と真空管で組む機械である。 修士は1953年、 博士は1955年(本人は1956年だったかもしれないと述べている)。 博士論文は「デジタル計算機における高周波ガス伝導電子工学の研究」で、 ガス放電管を双安定素子として使う試みだった。 その間、 哲学科の記号論理の講義にも出ている。
学位のあと、 バークレーで1年ほど代理の助教授を務めながら、 ガス放電素子を製品化するために仲間と4人で Digital Techniques という小さな会社を起こす。 資金を出したのは Hale 兄弟だった。 しかしトランジスタが急速に安くなるなかで出資者は外部の評価を求め、 エンゲルバート自身が評価先として SRI を推薦した。 SRI の調査団の結論は、 固体素子が自分たちの仕事を駆逐するだろう、 というものだった。 1957年、 出資は打ち切られた。
この前後に、 彼は三つの扉を叩いている。 一つ目は Hewlett-Packard。 研究部長の Barney Oliver と雇用条件まで詰めたが、 帰り道にレッドウッドシティの公衆電話から、 同社がデジタル技術に進むつもりかどうかを念のため確かめると、 答えは "Not a chance."(まったく無い)だった。 彼はその場で辞退する。 二つ目はスタンフォード大学。 計算機設計の講義を担当できると手紙を書いたが、 工学部長からの返事は、 計算機は支援業務であって、 学問の質を追う小さな大学の工学課程に入れる予定は無いというものだった。 三つ目が、 Digital Techniques の評価を行ったその Stanford Research Institute(SRI)である。
SRI の磁気素子技術者として
1957年に SRI に入る。 最初の仕事は Hewitt Crane のもとでの磁気デバイス、 とりわけ多孔磁心(MAD)によるシフトレジスタの研究で、 この分野でいくつもの特許を得た。 「人間の知性の増強」は、 まだ誰からも頼まれていない私的な関心だった。
1959年ごろ、 Newell・Shaw・Simon と知り合う。 人工知能の研究を進めていた彼らは、 LISP 処理専用の大型高速機を国防総省に提案しようとしており、 ハードウェアの経験がある彼をその開発責任者に誘った。 十分に賢い機械ができれば、 人が計算機と対話してやりたいことなどほとんど不要になる ── という彼らの見通しに、 エンゲルバートは同意しなかった。 機械がどれほど賢くなっても、 人間の側の作業が消えるわけではない。 彼はこの誘いを断り、 自分の構想に戻っている。 人工知能と知性増強の分岐が、 個人の進路の選択として最初に現れた場面である。
同じ1959年、 空軍科学研究局(AFOSR)から初めて資金を得る。 担当は情報科学部門の Harold Wooster で、 予算は年に100〜200万ドル程度の小さなプログラムだった。 本人によれば、 必要額の半分ほどしか出ず、 間接費も付かなかった。 装置を作る余裕は無く、 できるのは考えることだけだった。
1962年の報告書は何を提案したか
その「考えること」の成果が、 1962年10月の SRI 報告書「Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework」(Summary Report AFOSR-3223、 契約 AF 49(638)-1024)である。 装置の設計書ではなく、 研究計画を正当化するための理論書として書かれた。
まず「知性の増強」を定義する。 複雑な問題状況に取り組み、 必要な理解を得て、 解決を導く人間の能力を高めること。 対象は外交官、 経営者、 科学者、 弁護士、 設計者の仕事であり、 局所的な小技ではなく統合された働き方そのものだとする。
次に、 人間はすでに道具によって増強されていると論じる。 増強の手段は四つに分類される ── 人工物(Artifacts)、 言語(Language)、 方法論(Methodology)、 そしてそれらを使いこなすための訓練(Training)。 これらを身につけた人間を一つのシステムとみなし、 H-LAM/T(Human using Language, Artifacts, Methodology, in which he is Trained)と呼んだ。 改善すべきは計算機単体ではなく、 この系全体である。 言語・人工物・方法論のどれか一つが変われば、 能力の階層の上下に連鎖的な改良の余地が生まれる。
人間の知的能力の発達は四段階で説明される。 概念の操作、 記号の操作、 紙などを使った手作業による外部の記号操作、 そして第四段階としての自動化された外部記号操作。 計算機はこの第四段階をもたらす道具として位置づけられた。 外部の記号操作の手段が思考と言語そのものを形づくるという仮説(Whorf の仮説を拡張したもの)を確かめるため、 彼は逆向きの実験もしている。 鉛筆をレンガに縛り付けて書かせ、 タイプライターや普通の鉛筆と速度を比べたのである。 書く手段が貧しければ、 文明の記録も推論も別の形に育っただろう、 という論証だった。
報告書の後半には、 増強システムを使いこなす架空の人物「Joe」による実演の描写がある。 Joe は2面の画面を製図台のように傾けて使い、 片手で和音式のキーセットを打ち、 もう一方の手でライトペンを画面に当てて文章を切り貼りする。 1962年の時点で想定されていた指示装置は、 まだライトペンだった。
最後の研究提言が、 のちに「ブートストラップ」と呼ばれる考え方の原形である。 最初に増強する対象として、 報告書は計算機プログラマを推す。 理由の一つは、 研究所でシステムを作る人間自身がプログラマであり、 複雑な知的問題に取り組む人間だという点にあった。 研究者は自分たちが属する集団のための道具を作っているのだから、 成果をすぐ自分たちの研究に還流させれば、 改良は正のフィードバックで加速する ── 報告書はこれを「再生的(regenerative)」な性質と呼んだ。 建物を丁寧に組み上げるより、 まず粗い足場を急いで登って上から眺めよ、 という比喩も添えられている。
1963年、 ARPA の扉の前で
1962年末、 国防総省の ARPA は情報処理技術局(IPTO)の開設を決め、 1963年1月に業務を始める。 初代の局長は J. C. R. Licklider。 エンゲルバートは後年、 自分は報告書と提案書を持って「扉の前に立っていた」と振り返っている。 資金は1963年に下りた。
順調な出発ではなかった。 Licklider の最初の条件は、 南カリフォルニアの System Development Corporation が時分割化を進めていた大型機の上でプログラムを書くことだった。 SRI のあるメンローパークから遠く離れた機械で、 時分割は1日に数時間しか動かず、 頻繁に落ちた。 自分で作ったものを自分で使って改良するというブートストラップの方針とは相容れない。 やがて Control Data の小型機 CDC 160-A を10万ドルあまりで導入し、 電話回線とモデムで向こうの機械に接続する体制に移った。
SRI 社内でも立場は危うかった。 上司の Roy Amara と Jerry Noe は彼の構想を遠すぎるものとみなし、 ARPA の資金で始まる新しい案件の責任者には英国から来た John Wensley を据え、 エンゲルバートには意味の無い新しい肩書きを与えて、 提案書を書く役に回そうとした。 会議での発言にまで制限がかかり、 MIT への移籍を考えるほど追い詰められたという。 Wensley が「DELETE WORD;」とすべて打ち込ませる編集方式を採ったのに対し、 対話的な画面なら D と W の2打で足りると主張しても通らなかった、 という挿話を本人が残している。
その状況を救ったのが、 NASA 本部にいた心理学者 Robert Taylor からの電話だった。 Taylor は自分の裁量で動かせる予算を探してくれていて、 ラングレー研究所への資金に、 一部をエンゲルバートに回すという条件を付けた。 額は8万ドル。 Licklider からの資金と合わせて、 ようやく自前の計算機と表示装置で研究が始められた。 当初は円盤記憶も磁気テープも無く、 編集した文章は紙テープに打ち出して保存した。 研究室は当初「Augmented Human Intellect Research Center」と名付けられ、 のちに Augmentation Research Center(ARC)へ短縮される。
マウスと1968年の実演は、 それぞれのページへ
この ARC から出てきた成果のうち、 最もよく知られている二つには、 このサイトに専用のページがある。
- マウスは、 1961年ごろのエンゲルバートの着想を、 1964年に Bill English が試作機として組み上げたもの。 English は表示画面上の指示装置を比較する試験も担った。 特許(US 3,541,541)は1970年に成立している
- 1968年12月9日の公開実演は、 ARC の NLS(oN-Line System)を秋季合同計算機会議の聴衆の前で動かして見せた90分間である。 何がどのような回線構成で示されたかは 1968年の実演のページ に詳しい
ここで指摘しておきたいのは、 経歴の中でのこれらの位置である。 マウスは1962年の報告書の時点では存在せず、 指示装置の候補の一つとして後から測って選ばれた。 1968年の実演は、 報告書が1962年に描いた Joe の作業風景を、 6年かけて実物にしたものだった。
ARPANET の二番目のノードと NIC
1969年、 SRI は UCLA に次ぐ ARPANET の二番目の接続拠点となり、 ARC の計算機がそのホストになった。 同年10月に UCLA から最初のホスト間通信が送られた相手が、 この ARC の機械である。
ネットワークの情報を集めて配る役も ARC が引き受けた。 Computer History Museum に寄贈された SRI ARC/NIC 記録群の解説によれば、 ARC は1967年5月から、 将来の ARPANET 参加拠点の文書を集めて目録化し始めていた。 NLS を使ってネットワークの情報センターを運営するという、 ARPA への提案の準備である。 同年11月に情報センターの趣旨が ARPA と参加機関のあいだで素描され、 1969年末に構想が具体化し、 1970年に ARPANET で最初の Network Information Center(NIC)が SRI で動き出した。 NIC は NLS のサブシステムとして総合目録を持ち、 初期のネットワーク情報の検索窓口と保管庫を兼ねた。
当初の NIC は ARC の ARPA 契約の一部で、 利用者は ARC の計算機にログインし、 NLS の操作を覚えてから使う必要があった。 利用者が増えると機械は過負荷になり、 サービスは FTP や電子メール、 WHOIS のような専用サーバを通じて提供される形に移っていく。 1973年、 NIC は Elizabeth Feinler を主任研究者とする独立した案件として切り離された。 エンゲルバートの研究室が生んだ情報センターは、 その後 DNS の最上位ドメインの運営まで担うことになるが、 そこから先は彼の手を離れた歴史である。
1970年代、 研究所がほどけていく
ARC の最盛期は短かった。 1970年ごろから主要な研究者が離れ始め、 その多くが新設の Xerox PARC へ移った。 Wikipedia の記述では、 離反の背景には不満と将来像の違いがあった。 エンゲルバートは協調作業のための時分割・ネットワーク型の計算機を未来とみなしていたが、 若い世代は一人一台の個人用計算機に未来を見ていた。 対立は技術的であると同時に思想的でもあった。
1972年以降、 ARC の中心人物の何人かが自己啓発セミナー Erhard Seminars Training(EST)に参加し、 エンゲルバート自身も長くその理事を務めた。 この種の社会実験は研究所の士気と結束を損ねたとされる。 資金面では、 軍の予算で軍事目的と直結しない研究を支えることを制限した1969年の Mansfield 修正、 そしてベトナム戦争とアポロ計画の終結が重なり、 ARPA と NASA からの資金は1970年代前半を通じて細っていった。 SRI の経営陣はエンゲルバートの運営方法を認めず、 ARC の残りを人工知能研究者の Bertram Raphael の管理下に置いた。
Tymshare、 McDonnell Douglas、 そして Bootstrap
1977年、 SRI は NLS を時分割サービス会社の Tymshare に売却する。 エンゲルバートと NLS の開発陣の多くが Tymshare に移り、 システムの名は Augment に変わった。 一方 NIC は、 この時点ですでに国防通信庁の資金で動く別案件になっていたため、 SRI に残った。 Tymshare は Augment を事務自動化部門の商用サービスとして売り、 エンゲルバートは上級研究員の肩書きを得たが、 研究を続けたいという彼の意向は事業上の都合に押しやられた。
1984年、 Tymshare は航空宇宙企業の McDonnell Douglas に買収される。 航空機計画の長い生涯にわたる膨大な知識管理という課題は、 彼が考えてきた問題そのものだった。 しかし経営陣は関心を示しても、 資金と人員を本格的に投じることはなかった。 彼が同社を離れた年は資料によって1986年とも1989年とも書かれている。
その後、 娘の Christina Engelbart とともに Bootstrap Institute を設立する(設立年は1988年とする資料と1989年とする資料がある)。 全米発明家殿堂は、 その目的を世界規模の計算機ネットワークを通じて「集合的な IQ」を高めることと記している。 研究所は1989年から2000年までスタンフォード大学で経営者向けの3日間・半日のセミナーを開き、 1990年代初めには受講者の関心を受け皿にした非営利の Bootstrap Alliance が生まれた。 1990年代半ばには DARPA の資金で Augment の新しい利用者インターフェース(Visual AugTerm)を開発し、 2005年には全米科学財団(NSF)の助成で、 Augment の表示切替やリンク移動をブラウザ上で再現する HyperScope の開発に取り組んだ。 組織は後に Doug Engelbart Institute と名を改め、 Christina Engelbart が代表を務めている。
1962年の報告書で「研究者自身を最初に増強せよ」と書いた原則は、 ここで組織の改善の方法論へと広げられた。 道具を改良する人々の改良の仕方そのものを改良する ── その対象を研究室から一般の組織へ移したのが、 晩年の Bootstrap の仕事だった。
1990年代、 評価が追いつく
研究資金が途絶えがちだった晩年は、 皮肉にも顕彰が集中した時期でもある。
| 年 | 顕彰 | 授与理由など |
|---|---|---|
| 1997 | Lemelson-MIT 賞 | 賞金50万ドル |
| 1997 | ACM チューリング賞 | 対話型計算の未来についての啓発的な構想と、 それを実現する鍵となる技術の発明 |
| 1998 | 全米発明家殿堂 | マウス(US 3,541,541) |
| 2000年12月 | 米国国家技術賞 | CRT 表示とマウスによる連続的・実時間の対話、 ハイパーテキストのリンク、 文書編集、 オンライン誌、 画面共有の会議、 遠隔協働など、 個人用計算の基礎を築いたこと。 Clinton 大統領から授与 |
| 2001 | 英国コンピュータ協会 Lovelace メダル | |
| 2005 | Computer History Museum フェロー | 人間と計算機の相互作用の研究、 マウスの開発、 組織の効率を高めるための計算機の応用 |
2013年、 アサートン
2007年にアルツハイマー病と診断された。 最初の妻 Ballard は1997年に亡くなり、 2008年に Karen O'Leary Engelbart と再婚している。 2013年7月2日夜、 アサートンの自宅で腎不全のため死去した。 88歳。 妻と、 最初の結婚で生まれた4人の子 ── Gerda、 Diana、 Christina、 Norman ── が残された。
1950年12月の通勤路で立てた目標は、 人類が複雑で緊急な問題を扱う能力を上げることだった。 マウスも画面上の窓も、 その目標に向かう途中で作られた部品である。 部品は世界中の机に行き渡った。 目標のほうは、 彼が設立した研究所の名前と、 1962年の報告書の中に、 まだ未完のまま残っている。
関連する出来事
出典
二次資料A Lifetime Pursuit — Doug Engelbart Institute
経歴・ARC・Tymshare・受賞
二次資料Firsts: The Mouse — Doug Engelbart Institute
着想1961年、 Bill English による1964年秋の試作、 特許
海軍・レイテ島の赤十字図書室、 Ames、 1950年12月の決意、 バークレー、 Digital Techniques、 HP とスタンフォード、 RAND の誘い
SRI 入所、 AFOSR(1959年〜)、 ARPA の Licklider(1963年)、 SDC と CDC 160-A、 社内の対立、 NASA の Robert Taylor による8万ドル
AHIRC の名称、 NIC の準備(1967年)から稼働(1970年)、 1973年の分離、 1977年の Tymshare への売却
二次資料Douglas Engelbart, inventor of computer mouse, dies at 88 — Bangor Daily News, 5 July 2013
死因(腎不全)、 遺族、 最初の妻 Ballard の死去(1997年)
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