人物 :: PERSON
ビル・イングリッシュ
本名 William Kirk English。Douglas Engelbart の構想を動く装置と動く実演に変えた技術者である。1929年ケンタッキー州レキシントン生まれ。海軍を経て1960年ごろ Stanford Research Institute(SRI)に入り、Hewitt Crane の全磁気論理計算機の仕事から Engelbart の研究へ移った。Engelbart がノートに描いた図をもとに最初のマウスの試作機を作り、その最初の利用者となる。マウスを含む画面選択装置の比較実験は、彼を筆頭著者とする1967年の IEEE 論文として公刊された。1968年12月9日の実演では、会場と50km 離れた研究所を結ぶ映像・音声回線と制御ブースを構築し、会場後方から実演全体を演出した。1971年に Xerox PARC へ移り、Office Systems Research Group を率いる。同グループが作ったボール式マウスは初期の Alto で使われた。1989年に Sun Microsystems へ。2020年没。

プロフィール
- 生年
- 1929
- 没年
- 2020
- 在世
- 91 年
- 関連事象
- 02
- 名称
- ENBill EnglishJAビル・イングリッシュ
ビル・イングリッシュ(William Kirk English、 1929年1月27日 ケンタッキー州レキシントン生 ── 2020年7月26日 カリフォルニア州サンラファエル没)は、 最初のマウスを作った技術者であり、 それを世に知らしめた実演を成立させた人物である。 どちらも「考えた」とは違う。 その違いこそが、 この人物について書くべきことのすべてである。 計算機がどうあるべきかを見ていたのは Douglas Engelbart で、 本人が認めるとおり彼はそれを他人に説明するのが下手だった。 イングリッシュは、 理解した数少ない一人であり、 かつそれを実在させられる一人だった。
ARC まで
父は炭鉱を管理する電気技師。 ツーソン近郊の寄宿学校を経てケンタッキー大学で電気工学を修め、 海軍では北カリフォルニアと日本に勤務した。 1960年ごろ SRI の計算技術研究室に入り、 Hewitt Crane の全磁気論理計算機 ── Engelbart が1957年から在籍していたのと同じグループである ── と回転ドラム記憶装置に携わる。 1964年には同研究室の主任技師。 Engelbart に ARPA と NASA の資金がついて Augmentation Research Center(ARC)が動き出すと早期に加わり、 1971年まで副所長を務めた。
考えた人、 作った人、 測った人
Engelbart は1961年に着想をノートに書き、 そのまま3年放置した。 1964年、 表示画面上で最も効率のよいポインティング装置はどれかを調べる小さな NASA の助成がつく。 Engelbart は古いノートをイングリッシュと読み返し、 イングリッシュが試作機を作った。 くり抜いた木のブロックに車輪を直交させ、 上面にボタンを付けたもの。 最初の利用者も彼である。
この試験が何を示したかは、 正確に書いておく価値がある。 通説は結論を平らに均してしまっている。 論文 Display-Selection Techniques for Text Manipulation(English・Engelbart・Melvyn Berman 共著、 IEEE Transactions on Human Factors in Electronics HFE-8 第1号、 1967年3月)が比較したのは、 ライトペン、 Grafacon、 2方式のジョイスティック、 膝操作装置、 マウスの5種。 結論部によれば、 マウス・膝操作装置・ライトペンの3つが他より概して速く正確で、 未経験の被験者はマウスよりライトペンや膝操作装置のほうがよかった。 一方、 経験を積んだ被験者は試験した装置のうちマウスが最良で、 使って気持ちがよく疲れにくいと評価した。
つまりマウスは初対面で圧勝したわけではなく、 習熟した使い手の反復使用で勝った。 そちらのほうが難しく長持ちする勝ち方であり、 だからこの装置は研究所の標準装備になった。 なお、 画面上で動くものは論文の全編を通じて bug(虫)と呼ばれている。 カーソルでもなければ、 猫でもない。
特許 US 3,541,541(1967年6月21日出願、 1970年11月17日成立)は、 発明者を Engelbart、 譲受人を SRI とする。 イングリッシュの名はない。 特許が記録するのは、 誰が着想したかだからである。
実演は「演出」だった
1967年、 ARC が自前の SDS 940 を導入する際、 イングリッシュはテレビカメラを使って比較的安価なワークステーション12台へ同時に高解像度の表示映像を送る方式を考案している。
1968年12月9日。 Engelbart はサンフランシスコ市民講堂の壇上に座り、 計算機は約50km 先のメンローパークにあった。 その間のすべてをイングリッシュの班が作っている ── 会場側のワークステーション、 双方に向けたカメラ、 二地点間の双方向の映像・音声、 実時間で切り替える主調整ブース。 映像回線は電話会社の技師と親しくなって通し、 投影機はフォルクスワーゲン大のものを近隣の NASA 施設から借りて幅約10メートルに映した。
90分のあいだ、 イングリッシュは会場後方に座って全体を演出していた。 どの画を出すか、 どう混ぜるか、 二地点の歩調をどう合わせるか。 会議録の論文 A Research Center for Augmenting Human Intellect には Engelbart と並んで彼の名があり、 1969年10月の続編でも同じ役を務めた。 隣で働いていた Bill Duvall は追悼記事で、 何かをやる必要があると言えば彼はやり方を見つけてきた、 と述べている。
Xerox PARC
1971年、 イングリッシュは SRI を離れて Xerox の新設研究所 PARC へ移った。 ARC の相当部分が一緒に移っている。 理由は Alan Kay の Smalltalk 史が端的に書いている ── 彼らは NLS を分散ネットワーク系として作り直したかったが、 Engelbart はタイムシェアリングに留まりたかった。
PARC で彼は Office Systems Research Group を率いた。 このグループが作った PARC 最初のマウスがボール式で、 1968年の Telefunken Rollkugel と同系統の設計である。 1972年ごろの製作で、 研究所では「Hawley」マウスと呼ばれ、 PARC のビデオ端末系と初期の Alto で使われた。
もう一つ、 目に見えにくいが、 おそらくより大きな仕事がある。 彼は Alan Kay に研究グループの回し方を教えた。 一匹狼で立ち上げ方を知らなかったと自ら書く Kay は、 まず予算を作れと言われ、 予算とは何かと聞き返す羽目になった。
その後 Xerox で海外勤務を重ね、 1989年に Sun Microsystems へ国際化担当ディレクターとして移った。
記録が支えるところ
- マウスを着想したのは Engelbart。 1961年のノートも特許も彼のものである
- 作ったのはイングリッシュで、 最初の利用者も彼。 ただし試作の年は Doug Engelbart Institute と SRI が1964年、 Computer History Museum の紹介が1963年としており、 確定していない
- 比較実験を設計し実施したのはイングリッシュで、 報告論文の筆頭著者も彼である
- 1968年の実演を技術と演出の両面で成立させたのはイングリッシュ。 演じたのは Engelbart である
- 初期 Alto のボール式マウスは彼のグループの製品だが、 ボール式そのものは彼らが最初ではなく、 Alto を設計したのも彼ではない
1990年、 ACM は NLS に対する Software System Award を Engelbart・English・Jeff Rulifson の3人に贈っている。
関連する出来事
最終更新: