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チャールズ・バックマン

最初のデータベース管理システムとされる Integrated Data Store(IDS)の設計者。1924年カンザス州生まれ。陸軍の高射砲部隊での従軍を経てミシガン州立大学で機械工学を修め、ダウ・ケミカルで工場管理と全社データ処理部門の立ち上げを経験した。1960年に GE へ移って IDS を作り、CODASYL のデータベース・タスクグループでネットワーク型データモデルの標準案に関わる。1973年、博士号を持たない最初の ACM チューリング賞受賞者となった。ハネウェル時代には ISO の OSI 分科委員会の議長として7層参照モデルをまとめ、1983年に Bachman Information Systems を創業。2017年没。

チャールズ・バックマン(2012年、ACM チューリング賞100周年記念行事にて)
出典Dennis Hamilton (Wikimedia Commons) · CC BY 2.0 · Commons で見る ↗

プロフィール

生年
1924
没年
2017
在世
93 年
関連事象
02
名称
ENCharles W. BachmanJAチャールズ・バックマン

チャールズ・ウィリアム・バックマン(Charles William Bachman、 1924年12月11日 ── 2017年7月13日)は、 生涯を企業の中で過ごし、 博士号を持たないまま計算機科学の最高の学術賞を受けた技術者である。 2004年に長時間の聞き取りを行った歴史家 Thomas Haigh は、 彼の経歴を「化学工場を運営し」たところから書き起こしている。 ソフトウェアに触れる前に工場の管理職を経験し、 その後データベース管理、 データモデリング、 そしてネットワークの階層モデルにまで足跡を残した。 名を知られるデータベースシステムは、 半世紀を超える職業生活のうちの数年にすぎない。

フットボール監督の息子と「技術者になる」決意

カンザス州マンハッタンに生まれた。 父は Haigh が「殿堂入りしたフットボール監督」と書く人物で、 一家は何度か転居したのち、 父が当時のミシガン州立カレッジで働いたミシガン州イーストランシングに長く落ち着いた。 少年時代の彼は学校のいくつものチームでスポーツをし、 その関心は生涯続いた。 11歳のときには、 自作の無動力車で競う地元のソープボックス・ダービーで優勝している。

進路は早くから決めていた。 2004年の聞き取りで本人は「ほかのことに興味を持ったことは一度もない。 ずっと技術者になるつもりだった」(原文 "I was never interested in anything else. I was always going to be an engineer.")と語っている。

高射砲、 夜間の大学院、 ウォートン

先に来たのは戦争だった。 高校を1学期早く卒業し、 1943年の春から夏にかけてミシガン州立で1年次の単位を取ってから、 陸軍の高射砲部隊で2年間、 ニューギニア、 オーストラリア、 フィリピンを転戦した。 当時の高射砲は、 航空機のそれまでの軌跡を直線で延ばして未来位置を予測する機械式の計算機で照準を合わせていた。 Haigh によれば、 この経験が予測に基づく制御の重要さと、 未来の標的に当てることの難しさの両方を彼に印象づけた。

復員後にミシガン州立へ戻って1948年に機械工学の学位を取り、 熱力学への関心からペンシルベニア大学の大学院へ進む。 着いてから、 そこの工学系大学院が夜間課程で、 同級生は皆昼間に仕事を持っていると知った。 彼は昼の時間をウォートン・スクールの経営学の講義で埋め、 工学と経営の共同学位という制度はなかったものの、 MBA に必要な科目の大半を履修した。 1949年夏にミシガン州立時代の恋人 Connie Hadley と結婚し、 1950年に修士号を得ている。

ダウ・ケミカルの10年

最初の勤め先はミシガン州ミッドランドのダウ・ケミカルだった。 9か月かけて工場の各部門を回ったのち、 本人の言い方では「100人を超える技術者がいる部屋で製図台に向かう技術者」となり、 工場群に水・蒸気・電力を供給する設備の担当部署に配属された。 仕事の中身は設計そのものより経済性の比較で、 社内の「Equivalent Capital Project」では割引キャッシュフローのような考え方を自力で再発明したと回想している。 1952年には全工場の建設資本コストの分析に移り、 経理部門のパンチカード機の時間を確保して連立方程式を繰り返し解いた。 配線盤の結線も機械の操作も自分でやった。

1954年には農薬の価格設定を担当し、 1955年からの2年間は生産の現場に出て、 サラン工場のプロセス技術者、 続いてスタイロン475工場のナンバー2の管理者を務めた。 Haigh は、 こうして会社のさまざまな面に触れたことが、 事業を一つのつながったシステムとして見る彼の傾向を強めたと見ている。

1957年、 ダウはコンピュータの導入を決め、 資本会計の仕事で縁のあった財務担当役員の推薦で、 バックマンが新設の全社データ処理部門の長に就いた。 彼は IBM 709 を推し、 1958年5月までに30人を採用する。 ところが会社が業績不振に陥って部門の10人分のポストが削られ、 最終的に発注そのものが取り消された。 新しい本社ビルにはコンピュータ室だけが造られ、 機械はついに届かなかった。

SHARE、 9PAC、 そして「三つ組」のデータ

それでも、 この取り消された発注が彼の進路を変えた。 709を発注したことで、 ダウは IBM の大型科学計算機の利用者団体 SHARE の会員になっていたからである。 バックマンは、 709を事務処理に使おうとする少数派の会員の中ですぐに中心人物となった。 2回目の会合で GE のハンフォード施設の Harry Tellier と知り合い、 Tellier のチームが IBM 702 向けに作った帳票生成システムがダウにも役立つと見抜く。 二人は SHARE のデータ処理委員会の創設メンバーとなり、 委員会は709向けの後継版 9PAC を共同開発した。 9PAC は1959年に使われ始め、 磁気テープのファイルの中に親子関係 ── たとえば顧客レコードの後にその顧客の注文レコードを続ける ── を持たせる機能を備えていた。 この機能をバックマンは、 ハンフォードの Russ McGee との議論から生まれたものとしている。

彼は SHARE の情報処理理論の委員会にも加わり、 データを物理的な表現から切り離して、 値・名前・所有者の組み合わせで決まる「三つ組(triple)」の集合として捉える案をまとめた。 Haigh は、 データ処理のアプリケーションを一本も書かず、 コンピュータの納品を一度も受けないまま9PAC の設計で重要な役割を果たしたことに、 彼の実務的な知性の柔軟さが表れていると書いている。

IDS と DBTG は、 それぞれのページへ

1960年、 バックマンは GE のニューヨーク本社の生産管理サービス部門へ移った。 そこで設計したのが Integrated Data Store(IDS)で、 1963年までに動き、 最初のデータベース管理システムと広く評価されている。 仕組みと製品化の経緯は IDS のページ にある。 1966年から1968年には CODASYL のデータベース・タスクグループで活発に活動し、 その報告が IDS の設計をネットワーク型データモデルへと一般化した。 報告の中身は DBTG のページ で扱っている。

フェニックス時代 ── WEYCOS 2 と DataBASIC

1964年、 アリゾナ州の GE コンピュータ部門へ異動する。 当初はマーケティング担当で、 顧客に IDS の利点を説いて製品の立ち上げを助ける役目だったが、 部門は絶えず組織替えを繰り返し、 6年の間に企画部門を経て新設の先端ソフトウェア部門に落ち着いた。

この時期の仕事で DBMS の歴史に残るものが二つある。 一つは Weyerhaeuser 社の木材製品部門(ワシントン州タコマ)向けに、 両社の混成チームが1966年から1968年にかけて作った WEYCOS 2 である。 Haigh が最も重要な成果として挙げるのは、 一つのデータベースを最大8本のアプリケーションプログラムが同時に共有できるよう IDS を改造したことだった。 もう一つは1967〜68年に彼の指揮下で作られた DataBASIC で、 ダートマス大学の BASIC にデータベース操作の命令を加え、 プログラマでない専門職が自分のデータベースを作って問い合わせられるようにした。 レコード型も定義済みのフィールド名も持たない完全に即興的な仕組みで、 時代に先んじていたが、 ほとんど使われなかった。

1969年の人事評価は技術面の指導力を手放しで褒めつつ、 「チャーリーの主な関心は管理ではなく技術にある」と記している。

ハネウェル、 チューリング賞、 1974年の討論

1970年、 ハネウェルが GE のコンピュータ事業を買収し、 バックマンは同年8月にボストンへ移って新製品ラインの開発に就いた。 以後1980年まで、 ハネウェルの主任スタッフ技術者を務める。

1973年、 ACM チューリング賞の8人目の受賞者となった。 ACM の伝記は、 博士号を持たない最初の受賞者、 工学の教育を受けた最初の受賞者、 事務処理への応用で受賞した最初の人、 特定のソフトウェアで受賞した最初の人、 全経歴を産業界で過ごした最初の人だったと列挙している。 本人は、 この賞が自分の昇進にはあまり影響しなかったと語る一方、 チューリングという人物に興味を持ち、 英国の介護施設にいた母親 Sara Turing を訪ねている。 受賞講演「The Programmer as Navigator」は1973年11月の Communications of the ACM に載った。

この講演は論争の火種にもなった。 バックマンがある会合で講演の予告版を話し終えると、 エドガー・コッドが立ち上がって受賞を祝ったうえで、 その論文の主張は「完全に間違っている」と述べ、 正式な討論を申し込んだ ── C. J. Date が Haigh に語った回想である。 討論は1974年5月1日から3日にミシガン州アナーバーで開かれた ACM SIGFIDET ワークショップの午後をまるごと使って行われた。 SEQUEL の論文 が発表されたのと同じワークショップである。 バックマンは、 関係モデルと自分のネットワークモデルは数学的に等価であり、 違いは実装の効率と様式の好みにすぎないと論じた。 どちらも相手を説得できず、 実用的な関係型システムはまだ一つも存在しなかった。 バックマン自身は、 考えは大きく違ってもコッドとは討論の後に一緒に夕食に出かける仲だったと強調している。

その後もデータモデルの研究を続け、 1970年代後半には、 同じ実体を別の役割(従業員としての記録と顧客としての記録など)で表す複数のレコードを結びつける「ロール・データモデル」を提案した(M. Daya との共著、 1977年の VLDB 会議)。

二つの委員会 ── ANSI/SPARC と OSI の7層

バックマンは、 1972年に設けられた ANSI/X3/SPARC のデータベースシステム研究グループで副委員長を務め、 IDS と DBTG の基本概念を保つ形で規格案を起草しようとした。 合意は得られず、 本人はその原因の多くを、 階層型と関係型は支持してもネットワーク型は支持しなかった IBM に帰している。 Haigh が「残念賞」と呼ぶその成果が、 内部・概念・外部の三つのスキーマを区別する3層の枠組みで、 データベースの教科書がデータ独立性を説明するときの定番になっている。

もう一つの委員会は、 さらに広い影響を残した。 1978年から1982年まで、 彼は国際標準化機構(ISO)の開放型システム間相互接続(OSI)の分科委員会の議長を務めた。 米国からの提案は、 彼がハネウェル社内で練っていた Honeywell Distributed System Architecture を土台にしており、 本人は「75% はハネウェルでの私の仕事に基づいていた」と見積もっている。 分科委員会が残した最大の成果は7層の参照モデルで、 1990年代初めにはネットワークの教科書を組み立てる枠組みになった。 市場を取ったのは OSI 自身のプロトコルではなくインターネットのプロトコルだったが、 そのインターネットのプロトコルも、 階層化と抽象化という同じ考え方に沿っている。

カリネーンと Bachman Information Systems

1980年、 ハネウェルに見切りをつけてカリネーン・データベース・システムズの副社長に転じた(担当を Haigh の伝記は応用研究、 本人の聞き取りは製品管理としている)。 同社の主力製品 IDMS は彼の IDS の直系の子孫だったが、 本人は次第に、 自分は来客を玄関で出迎えるための飾りの役職だったと感じるようになる。 関係型への関心の移行に押された同社は IDMS を関係型として売り直そうとし、 1983年に彼を解雇した。

1983年4月1日、 妻 Connie とともに Bachman Information Systems を創業する。 Venrock と Kleiner Perkins から200万ドルの出資を得て、 1987年に最初の製品 Data Analyst を出した。 データモデルを図で描き、 メインフレーム用データベースの物理設計に変換する PC 用ツールで、 1ユーザーあたり1万5,000ドルという価格だった。 会社は NASDAQ に上場し IBM と提携したが、 提携はやがて冷え込み、 別の会社と合併して Cayenne Software となったのち、 1998年に Sterling Software へ以前の価値のごく一部で売却された。 本人はこれを経歴で最大の失望と呼び、 「私は会社が必要とした経営者ではなかった」と振り返っている。

顧問として、 晩年の栄誉、 そして死

70代半ばを過ぎても引退せず、 データモデリングの顧問として Constellar や、 臍帯血バンク Cord Blood Registry を運営する Cbr Systems の仕事をした。 2004年に Haigh が訪ねたときには、 Microsoft Access 2003 で設計の試作に打ち込んでいたという。 データ構造図の発展をたどる本も書き進めており、 彼はその図を新しい代数だと考えていた。

1977年に英国コンピュータ協会の Distinguished Fellow に選ばれた。 2012年度の米国国家技術革新賞(National Medal of Technology and Innovation)を「データベース管理、 トランザクション処理、 ソフトウェア工学における基礎的な発明」に対して受け、 2014年にホワイトハウスでオバマ大統領から授与されている。 2015年にはコンピュータ歴史博物館のフェローとなり、 同じ年に母校ミシガン州立大学から名誉工学博士号を受けた。

2017年7月13日、 マサチューセッツ州レキシントンで死去。 92歳だった。 資料はチャールズ・バベッジ研究所に収められている。 聞き取りの記録の末尾に彼が書き添えた一文 ── 「仕事が私の遊びだった」("My work has been my play.")── を、 Haigh は2本の伝記のどちらでも結びに置いている。

関連する出来事

  1. Integrated Data Store ── GE の Bachman が作った最初の DBMS
  2. CODASYL データベース・タスクグループ報告 ── ネットワーク型データモデルの標準案

よくある質問

データベースを発明したのは誰か
一人を挙げるなら Charles W. Bachman です。General Electric で Integrated Data Store(IDS)を設計し、1963年までに動かしました。この業績で1973年に ACM チューリング賞を受けています。歴史家 Thomas Haigh は、今日の DBMS の発明に誰よりも貢献したのは彼だと評しています。
バックマンは博士号を持っていたのか
持っていません。学位はミシガン州立大学の機械工学の学士(1948年)とペンシルベニア大学の機械工学の修士(1950年)です。博士号を持たないチューリング賞受賞者は彼が最初でした。
バックマンは OSI 参照モデルとどう関わったのか
1978年から1982年まで ISO の開放型システム間相互接続(OSI)の分科委員会で議長を務め、7層の参照モデルの策定を率いました。米国案はハネウェル社内で彼が練った分散システムアーキテクチャを土台にしていました。

出典

  1. 二次資料Charles W. Bachman: Database Software Pioneer — Thomas Haigh, IEEE Annals of the History of Computing 33(4), Oct–Dec 2011

    生い立ち、従軍、ペンシルベニア大学とウォートン、ダウ・ケミカル、SHARE と 9PAC、WEYCOS 2、DataBASIC、ハネウェル、1974年の討論、ANSI/SPARC、OSI、カリネーン、Bachman Information Systems、晩年

    取得日: 2026-10-04

  2. 二次資料Charles W. Bachman — A.M. Turing Award Laureate (biography by Tom Haigh)

    生年月日、学歴、職歴の年表、チューリング賞の「最初」、BCS Distinguished Fellow(1977年)

    取得日: 2026-10-04[archived]

  3. 二次資料Charles W. Bachman — Computer History Museum Fellow, 2015

    取得日: 2026-10-04

  4. 一次資料Charles Bachman — National Medal of Technology and Innovation, 2012 laureate

    受賞理由の文言

    取得日: 2026-10-04

  5. 二次資料Renowned computer scientist Charles Bachman ('48, '15) dies at 92 — Michigan State University College of Engineering, July 2017

    2017年7月13日の死去(レキシントン、92歳)、2014年のホワイトハウスでの授与、2015年の名誉博士号

    取得日: 2026-10-04

  6. 三次資料Charles W. Bachman — IEEE Computer Society, Computer Pioneers (J.A.N. Lee)

    取得日: 2026-10-04

  7. 三次資料Charles Bachman — Wikipedia

    取得日: 2026-10-04

最終更新:

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