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Lighthill 報告と第一次 AI 冬

メタデータ
- 日付
- 年代
- 1970s
- Tier
- T1
- 参照年表
- AIの歴史
- 出典数
- 07
- 関連項目
- 00
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第一次 AI 冬とは、人工知能研究への資金が細った時期に後から付けられた呼び名で、おおむね1974年から1980年ごろとされる。原因は大きく二つある。英国では、科学研究評議会(Science Research Council)のために書かれ、1972年7月付で1973年初めに公表された Lighthill 報告。米国では、1969年の Mansfield 修正条項を境に軍の研究資金が絞られ、DARPA が防衛上の直接の用途を持つ研究へと舵を切ったこと。「冬」という言葉自体は後年のもので、一部の有力研究所を除けば冬などなかった、と論じる歴史家もいる。
数学者による概観
科学研究評議会(SRC)には、Lighthill の言い方を借りれば「人工知能」という総称で呼ばれる広い分野からの助成申請が増え続けていた。評議会議長の B. H. Flowers は序文で、この主題は論争が激しく、通常のように冷静な専門家の委員会を組むことはできないと判断したと説明している。そこで、ケンブリッジ大学のルーカス教授職にある応用数学者で、AI の研究者ではない Sir James Lighthill に、個人としての評価を依頼した。
Lighthill は分野を三つに分けた。A は Advanced Automation(高度な自動化)で、産業・軍事・数学・科学の特定の目的のために人間を機械で置き換える研究。C は Computer-based CNS research(計算機を用いた中枢神経系の研究)で、計算機で脳を調べる研究。その間に B があり、これは「Bridge(橋渡し)」であると同時に、その中心的な活動である Building Robots(ロボットの製作)を表す。A と C には期待を下回りつつもそれなりの成果があるが、B はさらに期待外れで、そもそも独立した研究として成り立つ理由が乏しい ── というのが彼の見立てだった。
全体の結論は率直である。報告は、この分野のどの部分においても、これまでの発見は当時約束された大きな成果を生み出していない、と書く。彼は失望の一般的な原因として、「組合せ爆発」の意味を認識しなかったことを挙げた。知識の量が増えるにつれ、要素の組み合わせ方の数が爆発的に増える問題である。最も悪名高い失望の例としては機械翻訳を挙げ、1966年の米国科学アカデミーの評価 ── いわゆる ALPAC 報告 ── に触れている。
SRC は1972年9月に報告を討議し、翌年、Stuart Sutherland、Roger Needham、Christopher Longuet-Higgins、Donald Michie による反論とあわせて公表した。1973年6月には、王立研究所で Lighthill と、Michie・Richard Gregory・John McCarthy が討論する様子を BBC が放送している。
英国での縮小
報告を公開している Chilton Computing のアーカイブは、その影響をこうまとめる。報告は助成機関を含む英国の学界に AI への大きな信頼喪失を引き起こし、それは10年近く続いた。次に大きな取り組みが始まるのは、1982年の知識ベースシステムに関する研究分野レビューを経て、それが Alvey 計画の一部になってからである。Wikipedia は二次文献に基づき、AI 研究が続いたのは Edinburgh・Essex・Sussex など少数の大学だけだったとしている。
標的として最も目立ったのは Edinburgh だった。Thomas Haigh は Communications of the ACM で、Lighthill への依頼は、当時英国で最も重要な AI 拠点だった Edinburgh の Donald Michie の研究室への資金打ち切りを正当化する意図で行われた、と書いている。このページの写真のロボット Freddy II は、その Edinburgh で作られたものである。
米国側 ── Mansfield 修正条項と SUR
米国の経緯はおおむね別系統だが、完全に無関係でもない。米国学術研究会議(NRC)が1999年にまとめた歴史 Funding a Revolution は、最も重要な変化として Mansfield 修正条項を挙げる。ベトナム戦争下、軍が大学の科学を支配することへの懸念が高まるなかで1969年に成立し、国防総省が支援できる基礎研究を、軍の機能と「直接かつ明白な」関係を持つものに限った。DARPA の計算機部門は、AI の計画を軍事上の即効性で正当化しなければならなくなった。
Lighthill 報告は、そこにさらに圧力を加えた。同書によれば、報告は米国でも AI への資金に疑問を呼び、国防総省が DARPA の AI 計画を評価する委員会 American Study Group を設ける契機になった。結果として DARPA の資金はロボティクスから離れ ── この分野に深く投資していた SRI などが打撃を受けた ── 任務指向の研究へと移った。
音声認識はその流れを示す例である。DARPA の音声理解研究(SUR)計画は1971年に始まり、年300万ドルを5年間投じ、その後の後継計画も想定していた。最後に各システムが実演され、目標に最も近づいたのは Carnegie Mellon の HARPY だったが、試験のやり方をめぐって議論が起き、DARPA 内部にも計画は目標を達成できなかったとみる者がいた。DARPA は後継計画に資金を出さずに SUR を終えた。音声認識に大規模な資金を再び投じるのは、1984年の戦略的計算計画(Strategic Computing Program)からである。
本当に冬だったのか
Haigh は、少なくとも広い意味では冬は無かったと論じる。1970年代の主要な AI の集まりだった ACM の SIGART の会員数は、Lighthill 報告が出た1973年に1,241人で、1969年のおよそ2倍だった。それが1978年半ばにはほぼ3倍の3,500人に増え、ACM 全体よりも速く伸びていた。彼の見方では、痛みは現実にあったが、それは DARPA の資金を受ける一握りの目立つ研究所に集中しており、その研究所の指導者たちが後に分野の回想録を書いたのだという。
「AI winter」という言葉は1970年代には使われていなかった。記録に現れるのは1984年の AAAI 年次大会のパネル討論で、AI Magazine に「The Dark Ages of AI」として掲載されている。そこで Drew McDermott は、商業的な AI が崩れて資金が消える最悪の筋書きを描き、その状態を「AI Winter」と呼ぶ人もいると述べた。1970年代の縮小期が「第一次」と呼ばれるのは、その後のことである。
よくある質問
- AI の冬とは何か
- 人工知能への期待がしぼみ、研究資金が大きく削られた時期を指す言葉です。語としては1984年の AAAI 年次大会のパネル討論で、来るかもしれない不況を指して使われており、1970年代の縮小期は後からさかのぼって「第一次」と呼ばれるようになりました。
- 第一次 AI 冬はいつだったのか
- おおむね1974年から1980年ごろとされます。英国では1973年公表の Lighthill 報告、米国では1969年の Mansfield 修正条項以降の DARPA の方針転換が背景です。ただし歴史家 Thomas Haigh は、ACM の AI 分科会 SIGART の会員が1973年の1,241人から1978年半ばの3,500人へ増えたことなどを挙げ、広い意味での冬は無かったと論じています。
- Lighthill 報告はいつ出たのか
- 英国科学研究評議会(SRC)の依頼で1972年7月付にまとめられ、SRC は同年9月に討議して公表を決め、1973年初めに公表されました。「1974年」は第一次 AI 冬の始まりとして数えられる年であって、報告そのものの年ではありません。
- 米国の AI 冬も Lighthill 報告のせいなのか
- 主因ではありません。米国では1969年の Mansfield 修正条項が国防総省の研究支援を軍事目的に直結するものへ絞り、DARPA は音声理解研究(SUR)計画を後継なしで終えました。ただし Lighthill 報告は米国でも疑問を呼び、国防総省が DARPA の AI 計画を評価する委員会を設けるきっかけになっています。
出典
1972年7月付、SRC への申請増加が発端、「in no part of the field…」の一文、組合せ爆発の指摘、1966年の米国科学アカデミーによる機械翻訳の評価への言及
1973年初めの公表、英国の学界と助成機関の信頼喪失が10年近く続いた、1973年6月の BBC 討論、SRC が1972年9月に討議し公表を決めた(Flowers の序文)
Mansfield 修正条項(1969年)、SUR 計画(1971年開始・年300万ドル×5年・後継なしで終了)、Lighthill 報告が国防総省の American Study Group を促した、ロボティクスへの批判
二次資料Haigh, T. (2023). There Was No 'First AI Winter'. Communications of the ACM 66(12), 35–39
SIGART 会員数(1973年1,241人→1978年半ば3,500人)、Lighthill 報告は Edinburgh の Michie の研究室への資金打ち切りを正当化する意図で依頼された、とする見方
一次資料McDermott, D. et al. (1985). The Dark Ages of AI: A Panel Discussion at AAAI-84. AI Magazine 6(3)
「AI Winter」という語が、来るかもしれない資金枯渇を指して使われている
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