人物 :: PERSON
デニス・リッチー
C 言語の設計者(1971-1973年)であり、Ken Thompson と共に UNIX を作り上げた人物。1967年に Bell 研究所へ入り、2007年に Lucent の System Software Research Department 部門長として退職するまで職場を変えなかった。1983年に ACM チューリング賞、1998年に米国国家技術賞(授与は1999年)。2011年10月12日、Steve Jobs の死から1週間後に自宅で発見された ── そのニュースは Jobs の追悼の影に半ば隠れた。

プロフィール
- 生年
- 1941
- 没年
- 2011
- 在世
- 70 年
- 関連事象
- 02
- 名称
- ENDennis RitchieJAデニス・リッチー
デニス・マカリスター・リッチー(Dennis MacAlistair Ritchie、 1941-2011)は、 C 言語の設計者であり、 Ken Thompson と共に UNIX を作り上げた計算機科学者である。 職業生活のすべてを Bell 研究所とその後身の組織で過ごし、 表舞台に立つことを好まなかったが、 彼が残した二つの遺産 ── C と UNIX ── は、 現在に至るまで世界中のオペレーティングシステム、 言語処理系、 ネットワーク機器、 組込み機器のほぼ全てに、 直接あるいは間接の血脈として流れ込んでいる。
経歴
リッチーは1941年9月9日、 ニューヨーク州ブロンクスヴィルに生まれた。 父アリスター・リッチーは Bell 研究所の長年のスイッチング技術者で、 リレー式論理回路に関する標準的教科書『The Design of Switching Circuits』(1951年)の共著者でもある。 少年期はニュージャージー州で過ごした。
ハーバード大学で物理学を学び、 1963年に学士号を得た。 大学院では応用数学に転じ、 Patrick C. Fischer の指導の下で1968年に博士論文『Program Structure and Computational Complexity』を書き上げる。 論文は審査委員会の承認を得たが、 学位はついに授与されなかった。 Computer History Museum が2020年にこの散逸していた論文を発見した際の記録によれば、 ハーバードの図書館が製本した保存用の一部を要求し、 当時としては無視できない額の製本費を請求したのに対し、 リッチーはそれを支払うことを拒んだ ── 「図書館が保存用の一冊を欲しいなら、 その本の代金は図書館が払うべきだ。 私は払わない」というのが彼の言い分だった、 と Fischer は伝えている。 いわゆる ABD(everything but dissertation)ではなく、 「製本以外はすべて済んでいた」 状態である。
1967年、 リッチーは Bell 研究所のコンピューティングサイエンス研究センター(ニュージャージー州マレーヒル)に入所する。 大学院在学中には MIT の Project MAC で Multics プロジェクトに関わっていた。 1990年に Computing Techniques Research Department の部門長となり、 2007年、 Lucent Technologies の System Software Research Department の部門長として退職した。 AT&T の分社に伴って所属法人の名前は変わったが、 職場を移ったことは一度もない。
主な業績
UNIX(1969-)
1969年、 MIT・GE・Bell 研究所の共同プロジェクト Multics から Bell が撤退した直後、 Ken Thompson は「あまり使われていない、 表示処理装置の優れた PDP-7」を見つけ、 自分の気に入る計算環境を作り始めた。 これが UNIX の原型である。
リッチーは自分の関与を控えめにしか語らなかった。 「彼の仕事はすぐに私を引きつけた。 私も参加したが、 アイデアのほとんども、 それどころか作業のほとんども、 彼のものだった」 ── ACM に残る彼自身の回想である。 ファイルシステムの設計についても「設計の大部分は Thompson のもので、 そもそもファイルシステムについて考えようという衝動も彼のものだった。 ただ、 デバイスファイルという考えは私が寄与したと思う」と書いている。 Unix という名は、 1970年に入ってから Brian Kernighan が提案したものである。
初期 UNIX が何を持ち何を持たなかったか、 パイプがいつどのように入ったかは、 UNIX 誕生の記事で扱う。
C 言語(1971-1973)
UNIX の最初の版はアセンブラで書かれていた。 リッチーは1971年に Thompson の B 言語へ文字型を加え、 同時にコンパイラを PDP-11 の機械語を直接吐くように書き直す。 これが NB(new B)を経て C になった。 1973年夏、 UNIX カーネルそのものが C で書き直される。
この時点で移植性は目的ではなかった。 リッチー自身が明言している ── 「当時われわれは移植性をあまり重視していなかった。 それへの関心は後から生じたものだ」。 高水準言語で OS を書くこと自体は Multics(PL/I)などの先例があり、 C が決定的だったのは、 コンパイラの出力がアセンブリと競合できる速さと小ささを保ったままそれを可能にした点にある。 移植性は結果であって動機ではなかった ── そして結果のほうが歴史を動かした。 詳細は C 言語誕生の記事に譲る。
1978年2月、 Brian Kernighan との共著『The C Programming Language』(通称 K&R)が刊行される。 リッチー自身の説明によれば、 解説部分はほぼ Kernighan が書き、 リッチーは付録のリファレンスマニュアルと UNIX システムとのインターフェースの章を担当した。 この付録が1989年の ANSI 標準化まで事実上の言語定義として機能した。
なお「hello, world」が活字になったのは K&R が最初ではない。 初出は Kernighan が1972年に書いた B 言語のチュートリアル『A Tutorial Introduction to the Language B』である。
Plan 9 と Inferno
1980年代後半、 リッチーは Thompson、 Rob Pike らと共に、 UNIX の継承者となる分散 OS Plan 9 from Bell Labs の共同開発者となった。 Plan 9 は商業的には広まらなかったが、 UTF-8 の採用と、 後の Go 言語につながる設計思想を残した。 1995年には、 他の研究員と共に分散 OS Inferno と言語 Limbo の開発を始めている。 Inferno はセットトップボックスや高機能電話機のような機器を想定した設計だった。
受賞・栄誉
- 1983年 ── ACM チューリング賞(Ken Thompson と共同受賞)。 顕彰文は「Ken Thompson と共に、 汎用オペレーティングシステム理論の発展に対して、 とりわけ UNIX オペレーティングシステムの実装に対して」
- 1983年 ── ACM Software System Award(Thompson と共同)
- 1988年 ── 全米工学アカデミー(NAE)会員に選出
- 1990年 ── IEEE Richard W. Hamming Medal(Thompson と共同、 「UNIX オペレーティングシステムと C プログラミング言語の創始に対して」)
- 1994年 ── IEEE Computer Pioneer Award(Thompson と共同)
- 1998年 ── 米国国家技術賞(National Medal of Technology、 Thompson と共同受賞。 クリントン大統領による授与式は1999年4月21日)
- 2011年 ── 日本国際賞(Japan Prize、「情報通信」分野、 Thompson と共同受賞)
影響
リッチーは結婚しなかった。 2011年10月12日、 ニュージャージー州バークレーハイツの自宅で亡くなっているのが発見された。 享年70。 前立腺癌と心臓疾患を長く患っていた。
その死は、 ちょうど1週間前に他界した Steve Jobsの追悼の波の影に半ば隠された。 ソーシャルメディア上では、 Jobs が作った iPhone も、 リッチーの C と UNIX がなければ動かなかった、 という趣旨の指摘が広く共有された。 macOS と iOS のカーネル(XNU)は BSD と Mach の混成、 すなわち UNIX の子孫であり、 リッチーの遺産が Jobs のプロダクトの土台になっていたのは事実である。
Brian Kernighan は全米工学アカデミーに寄せた追悼文で、 リッチーをこう書いている ── 「デニスは控えめで、 親切で、 気取らず、 気前がよかった。 いつも他人に手柄を与え、 自分の貢献は小さく言った」(原文は英語)。 同じ追悼文の結びはこうである ── 「デニスは計算機の巨人だった。 世界の計算機のほとんどが Unix ないし Unix 系のシステムで動き、 世界のソフトウェアの多くが C か、 C から派生した言語で書かれている」。
C 言語と UNIX なくして現在の計算機文化は存在しない、 という言い方は誇張ではない。 リッチーの仕事は、 「アプリケーションの下にあって普段は見えないが、 動かなくなって初めてその存在が認識される基層」を作ったものだった。 そして彼自身が、 まさにそういう存在として、 静かに去った。
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出典
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