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ENIAC 公開 ── 配線でプログラムする電子計算機

弾道研究所(アバディーン)の建物328に設置された ENIAC。Glen Beck と Betty Snyder が機械を操作している
出典U.S. Army Photo (Wikimedia Commons) · Public Domain · Commons で見る

メタデータ

日付
年代
1940s
Tier
T1
出典数
07
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01
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1946年2月14日、 フィラデルフィアのペンシルベニア大学ムーア校に報道陣が集まった。 陸軍兵器局が戦時中「Project PX」の名で秘匿していた機械の公開である。 翌15日には正式な献納式が行われ、 ニューヨーク・タイムズが記事を出した。

機械の名は ENIAC(Electronic Numerical Integrator And Computer)。 真空管17,468本 ── ペンシルベニア大学自身は概数で18,000本と書く ── に、 継電器1,500個、 抵抗70,000個、 コンデンサ10,000個。 重量約30トン、 消費電力約150キロワット。 幅3フィート・高さ10フィートのパネルが全長100フィートにわたって U 字に並び、 約1,500平方フィートの部屋を占めていた。 加算は毎秒約5,000回。 費用はおよそ50万ドルである。

デモンストレーション

実演を担当したのは数学者の Arthur Burks だった。 彼の回想を C. Dianne Martin の研究が引いている ── まず5,000個の数を足してみせると宣言してボタンを押した。 ENIAC は1秒で足し終え、 Burks の言葉では「記者たちが顔を上げる前に問題は終わっていた」。

主役は弾道計算だった。 砲口から着弾まで30秒かかる砲弾の軌道を選び、 ENIAC は20秒で計算した。 人間の計算手なら3日、 微分解析機でも30分かかる計算である。 弾より速く弾道を解く ── 見せ物としてこれ以上のものはなかった。

そのデモ用の弾道計算プログラムを書いたのは、 Betty Snyder と Jean Jennings の二人である。 Jennings の後年の回想によれば、 公開の前夜、 プログラムは正しく走るのに砲弾が着地しても計算を止めなかった。 二人は午前2時まで確認を繰り返し、 翌朝、 Snyder がマスタープログラマのスイッチを一つ切り替えて解決した。

記録から消えた6人

ENIAC を動かしていたのは、 Kathleen McNulty、 Frances Bilas、 Betty Jean Jennings、 Ruth Lichterman、 Elizabeth(Betty)Snyder、 Marlyn Wescoff の6人だった。 いずれも弾道研究所で手回し計算機や微分解析機を扱っていた「計算手(computer)」 ── 当時この語は職業名であり、 人間を指した ── から選ばれ、 機械のプログラミングを担当した。

2月15日のニューヨーク・タイムズは、 ENIAC が「訓練された男性なら数週間かかる難問を、 きっかり15秒で解いた」と書いた。 Jennifer S. Light の研究は、 この「15秒」が問題を機械に載せるために女性たちが費やした時間を勘定に入れていないことを指摘する。 記事は Eckert と Mauchly の写真を添えて二人を発明者として紹介し、 機械が「訓練された男性100人を1年拘束したはずの仕事」をこなすと書いた。 弾道研究所もムーア校も計算手をほぼ女性しか雇っていなかったにもかかわらず、 仮定の100人は男性として描かれている。

写真も同じだった。 記事に付いた一枚は制服の男性が配線を差す姿を前面に置き、 説明文は「機械を準備する係員」とだけ書いている。 背景に写り込んだ二人の女性は、 目を凝らさなければ見えない。 このニュース写真は陸軍の募集広告に転用されたが、 その版では女性たちは切り落とされていた。

この不可視化は、 後から発見された不都合ではなく、 当時の報道と広報が作った状態である。

汎用・電子式、 そして公衆に知られた

ENIAC は世界初の電子計算機ではない。 英国の Colossus は1943年から暗号解読に稼働しており、 アイオワ州立大学の Atanasoff-Berry Computer は1942年に電子式で連立方程式を解いていた。 前者は特定用途に限られ、 かつ戦後長く機密だった。 後者はプログラム可能ではなかった。 Zuse の Z3(1941年)はプログラム可能だが電気機械式である。

ENIAC が最初だったのは、 汎用にプログラムできる電子式デジタル計算機として実際に完成し、 継続的に使われ、 そして公衆に知られたことである。 最後の一点は歴史的に軽くない ── 1946年2月の報道が「電子頭脳」という語を世界中の見出しに載せ、 計算機に対する一般の像を数十年にわたって規定した。

そしてもう一つ、 ENIAC はプログラム内蔵方式ではなかった。 問題を変えるにはケーブルを抜き差しし、 スイッチ盤を組み替える。 一つの問題の設定に数日かかることもあった。 同じムーア校で1945年に書かれた EDVAC の草稿が命令を記憶に置く構成を論じていたのは、 まさにこの手間への回答である。

内蔵方式への改造

1947年春、 von Neumann は R. F. Clippinger に、 ENIAC を設計時の想定とは全く違う方法で動かせると持ちかけた。 命令を関数表(function table)のスイッチに書き込み、 60種の「命令」を解釈させる ── いわゆるコンバータ・コードである。 Clippinger の弾道研究所報告第673号(1948年9月29日)は、 この方式を仕上げたのが von Neumann、 Adele Goldstine、 Betty Bartik(旧姓 Jennings)、 Clippinger、 A. Gehring であり、 K. McNulty・J. Holberton・E. Snyder・F. Bilas らが寄与したと明記している。 女性たちの名は、 一般紙ではなく陸軍の技術報告に残った。

代償は速度だった。 同報告は計算速度が6分の1に落ちると認めている。 得られたのは、 問題の入れ替えが1日仕事から1時間仕事になることだった。

ただしこの改造は、 書き換え可能な記憶にプログラムを置いたわけではない。 命令はスイッチで設定される読み出し専用の表にある。 記憶からプログラムを実行した最初の機械という位置は、 1948年6月のマンチェスターの Baby に与えられる。

1955年の停止と、 1973年の特許無効

ENIAC は1947年にメリーランド州アバディーン試験場の弾道研究所へ移され、 弾道表のほか気象予測、 原子力計算、 宇宙線研究、 風洞設計に使われた。 停止は1955年10月2日である。

1973年、 Honeywell 対 Sperry Rand 訴訟の判決は ENIAC 特許を無効とした。 EDVAC 草稿の無制限配布と、 Mauchly が Atanasoff の機械から着想を得ていたという認定が、 その理由である。

出典

  1. 二次資料ENIAC — Penn Engineering, University of Pennsylvania

    取得日: 2026-08-12

  2. 二次資料1946 — Timeline of Computer History, Computer History Museum

    取得日: 2026-08-12

最終更新:

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