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ジョン・フォン・ノイマン

ブダペスト生まれの数学者。1926年に博士号を取得し、1930年からプリンストン、1933年からプリンストン高等研究所(IAS)数学部門の創設教授6人の一人として没するまで在籍した。量子力学の数学的基礎(1932年)、Oskar Morgenstern との『ゲームの理論と経済行動』(1944年)に加え、マンハッタン計画の顧問として爆縮方式を提案。1945年の『First Draft of a Report on the EDVAC』は彼の名だけを著者として配布され、プログラム内蔵方式の記述として広く読まれた ── ただしそこに書かれた着想が彼一人のものであったかは長く争われている。IAS で作られた計算機は1952年に稼働し、その設計は少なくとも17か所で複製された。

ロスアラモス研究所の身分証用に撮影されたジョン・フォン・ノイマンの写真
出典Los Alamos National Laboratory (Wikimedia Commons) · Attribution · Commons で見る

プロフィール

生年
1903
没年
1957
在世
54 年
関連事象
02
名称
ENJohn von NeumannJAジョン・フォン・ノイマン

ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann、 1903年12月28日 ── 1957年2月8日)は、 集合論・量子力学・ゲーム理論・数値解析・計算機設計・原子力と、 二十世紀の学問のかなりの範囲に足跡を残した。 計算機の世界では、 彼の名は個人ではなく構造の呼称として残っている ── 「ノイマン型」である。

経歴

ブダペストに生まれた。 1926年、 22歳でブダペスト大学から数学の博士号を得ている。 学位論文は集合論に関するものだった。 1929年にプリンストンへ量子論の講義に招かれ、 1930年に客員講師、 1931年に教授。 1933年、 プリンストン高等研究所(IAS)の数学部門に創設時の教授6人の一人として迎えられ、 以後、 没するまでそこに在籍した。

1932年の『Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik』は、 当時まだ雑然としていた量子力学に厳密な数学的枠組みを与えた。 1944年には Oskar Morgenstern と『Theory of Games and Economic Behavior』を著し、 ゲーム理論を一つの分野として立ち上げている。

戦時中はマンハッタン計画の顧問を務めた。 核物質を臨界に達させる爆縮方式の提案は彼の寄与として知られる。 1940年から1955年にかけて、 複数の軍関係研究所で助言職を兼ねた。

計算機との出会い

ロスアラモスでの計算需要が、 彼を計算機へ向かわせた。 Bell 研究所にもハーバードにも必要な計算能力はなく、 1944年、 偶然にペンシルベニア大学ムーア校で計算装置が作られていることを知る。 数週間後に訪れた彼が見たのは、 設計は完了しているがまだ完成していない ENIAC と、 始まったばかりの EDVAC の作業だった。 彼はロスアラモスの計算を ENIAC の最初の大口利用として手配し、 以後1年半、 EDVAC 計画の顧問を務める。

そこから生まれたのが 1945年6月30日の『First Draft of a Report on the EDVAC』である。 装置を CA・CC・M・I・O に分け、 命令と数値を同じ記憶に置く構成を、 真空管という具体物を剥ぎ取った論理の言葉で書いた文書だった。 これが彼の名だけを著者に掲げて配布されたことが、 四十年に及ぶ帰属の争いを生む。 記録が支持するのは、 着想が Eckert・Mauchly・Burks・Goldstine と von Neumann の議論から出たものであること、 そして工学的細部を除いた理論としての記述が彼一人の仕事であったことの両方である。

1947年春には、 ENIAC を設計時とはまったく違う方式 ── 命令表に書いた命令列を解釈させる方式 ── で動かせると R. F. Clippinger に持ちかけた。 弾道研究所報告第673号は、 その仕上げにおける彼の役割を中心的なものと記している。

IAS マシン

von Neumann は自ら計算機を作る側にも回った。 IAS の電子計算機計画で作られた機械は1952年に稼働し、 米国の核兵器計画のための計算を行った。 この設計は少なくとも17か所で複製され、 ロスアラモスの MANIAC、 イリノイ大学の ILLIAC、 RAND の JOHNNIAC、 オーストラリアの SILLIAC といった、 似た響きの名前が並ぶことになる。 商用機と違い、 IAS の設計は公開されていた ── それが複製を容易にした。

晩年はオートマトン理論に取り組み、 自己複製する機械の論理を追っている。

顕彰

1938年 Bôcher 記念賞、 1947年 Medal for Merit、 1951年から1953年までアメリカ数学会会長、 そして1956年、 原子力分野の最高位の顕彰である Enrico Fermi 賞を受けた。 同年に癌で入院し、 1957年2月8日、 ワシントン D.C. で53歳で死去している。

「ノイマン型」という語は、 便利だが正確ではない。 それが指しているのは一人の発明ではなく、 一本の未完成の草稿が広く読まれたという歴史的事実である。

関連する出来事

  1. EDVAC 報告書第一草稿 ── プログラム内蔵方式が文章になった日
  2. ENIAC 公開 ── 配線でプログラムする電子計算機

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