人物 :: PERSON

クリステン・ニゴール

Ole-Johan Dahl とともに Simula 言語を設計し、オブジェクト指向の概念を生んだ計算機科学者。同時に、ノルウェーの EC / EU 加盟反対運動を率いた政治家でもある。1926年オスロ生まれ。ノルウェー国防研究所(1948-1960年)でモンテカルロ法とオペレーションズ・リサーチに従事したのち、1960年にノルウェー計算センターへ移り、1962-1975年は研究部長。待ち行列系を高い水準で記述したいという要求から Simula I(1965年)と Simula 67 が生まれた。1971-1973年にはノルウェー鉄鋼・金属労働組合との共同研究を率い、これが後に参加型デザイン(participatory design)と呼ばれる分野の出発点になる。1988年に発足した Norge og EF に関する啓発委員会の委員長を務め、後身の Nei til EF / Nei til EU を1995年まで率いて1994年の国民投票で勝利した。オーフス大学(1975-1976年)、オスロ大学(1977年から II 号教授、1984-1996年は常勤)。2001年 ACM Turing 賞、2002年 IEEE John von Neumann メダル(いずれも Dahl と共同受賞)。2002年没。

1997年、ブラジル・プログラミング言語シンポジウム(SBLP'97)会場でのクリステン・ニゴール
出典Jorge Stolfi (Wikimedia Commons) · Public domain (PD-self) · Commons で見る

プロフィール

生年
1926
没年
2002
在世
76 年
関連事象
01
名称
ENKristen NygaardJAクリステン・ニゴール

クリステン・ニゴール(Kristen Nygaard、 1926年8月27日 オスロ生 ── 2002年8月10日 オスロ没)は、 Ole-Johan Dahl とともに Simula 言語を設計した計算機科学者である。 同時に、 ノルウェーの EC / EU 加盟に反対する国民運動を率いた政治家でもあった。

計算機科学の年表は前者だけを、 政治史の年表は後者だけを載せる。 本人にとっては、 どちらも誰が何をどこまで決められるのかという一つの関心から出ていた。

オペレーションズ・リサーチから来た人

言語設計者としては珍しく、 出発点はプログラミングではなかった。 1948年から1960年までノルウェー国防研究所(FFI)に勤め、 前半は計算とプログラミング、 後半はオペレーションズ・リサーチに従事する。 1957年からは国防の OR 班の責任者、 1959年にはノルウェー・オペレーションズ・リサーチ協会を立ち上げて初代会長。 1956年のオスロ大学の学位もモンテカルロ法に関するものだった。

つまり彼が計算機に求めていたのは、 速い計算ではなく複雑な系を記述する語彙である。 Stein Krogdahl による Simula 史は、 1962年1月にフランスの OR 研究者 Charles Saltzmann へ宛てた書簡を引く。 待ち行列系の記述の構想はほぼ固まった、 明日その実装に関心を持つ腕のいいプログラマに会う ── その相手が Dahl だった。

Simula での役割

Simula 67 の概念を実装できる形に鋳直したのは主に Dahl だった。 ニゴールが担ったのは、 その手前と外側にあたる部分である。

1962年8月にミュンヘンの IFIP 世界会議で構想を発表したあと、 彼はしばらく組織と資金の仕事に集中する。 その結果が、 ノルウェー計算センター(NR)への UNIVAC 1107 の割引調達と、 同じ契約に組み込まれた Simula 実装の資金だった。 計算機を買う契約の中にコンパイラ開発の予算を書き込んだ ── この一手がなければ Simula I の実装は始まっていない。 彼は1960年に NR へ入り、 1962年から1975年まで研究部長を務めている。

現場での議論の激しさは、 Dahl への追悼文に本人が書き残している。 新入りの職員が交換台へ駆け込み、 一階の黒板の前で二人の男が喧嘩している、 と叫んだ。 交換手は廊下で数秒耳を澄ませ、 落ち着きなさい、 Ole-Johan と Kristen が Simula の話をしているだけだ、 と答えた。

労働組合との共同研究

Simula 67 の凍結後、 彼の関心は言語からその言語で作られる系を誰が設計するのかへ移る。

1960年代末、 ノルウェー鉄鋼・金属労働組合(NJMF)が NR の彼に接触した。 経営側が導入しつつある計画・管理・情報システムに、 組合の側にも理解が要るという問題意識からである。 1971年に始まったこの共同研究は、 NR が受注した事業のうち単独の発注者が労働組合連合であった最初のものだった。

Randy Trigg が要約した1975年のニゴール自身の総括によれば、 当初の作業計画は途中で捨てられている。 このままでは組合役員の書棚に読まれない報告書が並ぶだけになる、 と気づいたからである。 そこで「成果」の定義を、 報告書ではなく、 組合と組合員が情報処理と管理に対する影響力を得るための行動そのものへ置き換えた。 四つの職場グループのうち三つでは、 生まれた文書の65〜70パーセントを組合員自身が書いている。

この方式はスカンジナビア各国に伝播し、 のちに参加型デザイン(participatory design) と呼ばれる分野になる。 Ole Lehrmann Madsen は追悼文で、 この仕事は長く政治的すぎると見なされたが、 やがて利用者を設計に参加させたほうが良い系が安く作れると理解された、 と書いている。

Nei til EF、 Nei til EU

政治との関わりは早い。 1965年と1967年には自由党(Venstre)の戦略委員会を率い、 1971年に労働党へ移った。 1972年9月の EC 加盟をめぐる国民投票までは、 反対派の「EC 反対青年戦線」(Ungdomsfronten mot EF)の調整委員会を率いている。 結果は全国で反対53.5パーセント。

1988年秋、 「ノルウェーと EC に関する啓発委員会」が発足し、 委員長にニゴールが就いた。 この委員会が改組されたのが Nei til EF(1994年以降は Nei til EU)で、 彼は1995年6月までその指導者を務める。 1994年11月28日の国民投票は反対52.2パーセント、 二度目の否決だった。 翌1995年、 彼は組織を離れて欧州反マーストリヒト運動(TEAM)の立ち上げに向かう。

大学、 そして最後の企画

オーフス大学の情報学教授(1975-1976年)を経て、 オスロ大学へ。 1977年から II 号教授、 1984年から1996年まで常勤である。 主題はシステム開発と情報技術の社会的影響の二本立てだった。 1987年の渡米時にはスタンフォード大学の客員教授、 Xerox PARC の客員研究員、 Apple のコンサルタントを同時に務めている。

言語の仕事も続いた。 記述言語 DELTA、 オーフスでの Madsen らとの協働から生まれた BETA、 そして最後の企画 COOL ── 出回っているオブジェクト指向の教科書の質への不満から始まった教材づくりの国際計画である。 参加者を集め終えたところで彼は急死した。 Dahl の死から6週間後だった。

受賞

  • 1990年 ── Norbert Wiener 賞(Computer Professionals for Social Responsibility、 外国人として初)
  • 1999年 ── Rosing 名誉賞(ノルウェーデータ協会、 Dahl と共同で第1回受賞)
  • 2000年 ── 聖オーラヴ勲章コマンダー(Dahl とともに)
  • 2001年 ── ACM A.M. Turing 賞(Dahl と共同受賞)
  • 2002年 ── IEEE John von Neumann メダル(Dahl と共同受賞。 発表は2001年11月で、 出典によって年が食い違う。 ここではオスロ大学の表記に従った)

関連する出来事

  1. Simula 67 ── クラスと継承が言語に入る

最終更新:

共有