人物 :: PERSON
エイダ・ラブレス
詩人 Byron 卿の娘で、Charles Babbage の解析機関を言葉で描き出した数学者。1843年、Menabrea の解析機関についての論文を英訳し、原文の約3倍に及ぶ注釈 A〜G を付けて発表した。最後の Note G にはベルヌーイ数を機械で計算する手順の表があり、しばしば最初のコンピュータプログラムと呼ばれる。機械が数以外の記号や音楽も扱えるという見通しを示した一方、機械は何かを生み出すことはできないとも書き、これは1950年に Turing が反論の一つとして取り上げた。注釈への彼女自身の寄与の大きさをめぐっては研究者の評価が分かれている。米国防総省の要件から生まれたプログラミング言語 Ada は彼女にちなむ。

プロフィール
- 生年
- 1815
- 没年
- 1852
- 在世
- 37 年
- 関連事象
- 00
- 名称
- ENAda LovelaceJAエイダ・ラブレス
エイダ・ラブレス(Ada Lovelace、 本名 Augusta Ada King, Countess of Lovelace、 1815年12月10日 ── 1852年11月27日)は、 Charles Babbage が設計した解析機関について、 1843年に長い注釈を書いた数学者である。 注釈の最後にあるベルヌーイ数の計算表は、 しばしば「最初のコンピュータプログラム」と呼ばれる。 ただし、 その注釈のどこまでが彼女自身の仕事で、 彼女がどれほどの数学者だったかについては、 研究者のあいだで評価が大きく分かれてきた。 このページは両方の立場を、 名前の分かる出典ごとに並べる。
生い立ち
父は詩人の Byron 卿、 母は Anne Isabelle Milbanke。 両親は1815年1月に結婚し、 彼女が生まれた翌月の1816年1月に別居した。 Byron 卿はその年に英国を離れ、 彼女は父に二度と会うことがなかった(MacTutor)。 母は娘が父のような詩人にならないよう、 数学を重視した教育を家庭教師に任せた。 10代には数学者・科学著述家の Mary Somerville から本を送られ、 問題を出され、 Babbage と彼の機械の話も聞いている。
1833年6月5日、 17歳でパーティーに出て Babbage と出会い、 2週間後に母と彼の工房を訪ねて、 小さな階差機関が動くのを見た。 Science Museum によれば、 これが生涯の友情の始まりで、 Babbage は彼女を “Enchantress of numbers” と呼んだ。 1835年7月8日に William King と結婚し、 夫が1838年に伯爵に叙されたことで Lovelace 伯爵夫人となった。 3人の子をもうけたあと、 1840年から41年にかけて、 ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の数学者 Augustus De Morgan のもとで通信による大学程度の数学の学習を続けた。
1843年の注釈
1840年に Babbage がトリノの数学者たちと解析機関について議論し、 その一人の L. F. Menabrea が1842年10月にフランス語で論文を発表した。 ラブレスはこれを英訳した。 Babbage の自伝(1864年)によれば、 なぜ自分で独自の論文を書かないのかと尋ねると、 彼女は思いつかなかったと答え、 そこで Babbage が訳に注釈を付けることを勧めた。 注釈 A〜G は原文の約3倍の長さになり、 1843年に Taylor の Scientific Memoirs 第3巻に、 訳者名を A.A.L. として掲載された。
注釈が今も読まれるのは、 機械の歯車ではなく、 機械が何をしうるかを論じているからである。
- Note A は、 解析機関と階差機関の違いを Jacquard 織機の穿孔カードに求め、 “the Analytical Engine weaves algebraical patterns just as the Jacquard-loom weaves flowers and leaves” と書く。 同じ注釈で、 音の高さの関係を演算の記法で表せるなら、 機械は “might compose elaborate and scientific pieces of music of any degree of complexity or extent” と述べている。 Science Museum は、 数以外の記号や音符を扱いうるというこの見通しを、 電子計算機の時代まで十分に理解されなかった概念上の飛躍と評している
- Note G は冒頭で過大評価を戒め、 “The Analytical Engine has no pretensions whatever to originate anything. It can do whatever we know how to order it to perform.” と書く。 そのうえで、 機械がベルヌーイ数をどう計算するかを段階ごとに追い、 B₇ を求める計算の図と表を付けた。 Hollings らの説明では、 この表は計算の各段階で機械の各部がどう変わるかを示す、 今でいう実行トレースであり、 プログラムそのものは対応する穿孔カードの束になるはずのものだった
Note G 冒頭の一文は、 1950年に Alan Turing が「Lady Lovelace's Objection」として取り上げ、 機械は命じられたことしかできないという見方の代表として反論した(Turing は注釈を1842年の覚え書きとして引いている)。 Turing は同じ箇所で、 解析機関は万能ディジタル計算機であり、 記憶と速度が十分なら適切なプログラムでほかの機械を模倣できたはずだが、 その議論は伯爵夫人にも Babbage にも思い浮かばなかっただろう、 と書いている。
評価をめぐる論争
ラブレスの評価は「天才」から「ペテン師」まで振れてきた、 と Hollings・Martin・Rice の2017年の論文は書いている。 主な立場は次のとおりである。
| 立場 | 論者 | 主張 |
|---|---|---|
| 同時代の証言 | Charles Babbage(1864年) | 題材の選択も問題の代数的な展開も彼女自身のもの。 ただしベルヌーイ数の部分は手間を省くため Babbage が引き受けると申し出た。 彼女はそれを送り返し、 Babbage の重大な誤りを指摘した |
| 同時代の証言 | Augustus De Morgan(1844年、 母あての私信) | 彼女の数学的思考力は初学者として並外れており、 ケンブリッジに進む若い男子がこれほどの力を見せたなら、 独創的な、 ことによると第一級の研究者になると予言しただろう |
| 能力を低く見る | Dorothy Stein(伝記、 1985年) | 初歩的な誤りや細部の質問の多さは、 数学の理解が心もとなかった証拠 |
| 寄与を小さく見る | Allan Bromley(1990年) | 彼女が解析機関のプログラムを用意した証拠はなく、 Babbage との書簡はその知識がなかったことを示す |
| 理解力を疑う | Doron Swade(2000年) | 1830年代後半の彼女には階差機関の解説を理解する素地がなかった |
| 総合者として見る | Betty Toole(1992年) | 総合する人であり先を見通す人。 想像力を取り込んだ、 より表現力のある数学・科学の言語の必要を見ていた |
| 共同作業と見る | Thomas Misa(2016年) | 数学的内容を含む1843年の論文は、 Babbage との緊密な知的共同作業の産物 |
| 再評価 | Hollings・Martin・Rice(2017年) | De Morgan との往復書簡を初めて数学史家として分析し、 年代を並べ直した結果、 1842年初めまでに大学程度の数学の確かな基礎と、 原理を批判的に見る姿勢を身につけていたと結論。 Stein の論拠の中心だった書簡は1842年ではなく1840年のものだとする |
最後の研究は Oxford 大学の Ursula Martin が率い、 Bodleian 図書館が持つ Lovelace-Byron 文書の数学関係の資料を調べたもので、 往復書簡は Clay Mathematics Institute のサイトで画像と翻刻が公開されている。 一方、 Babbage の証言は当事者の回想であり、 Misa の「共同作業」という整理と両立もする。 このページは、 どの立場が正しいかの判定はしない。 確かなのは、 注釈が彼女の名(の頭文字)で出版され、 Babbage 自身がベルヌーイ数以外の展開を彼女の仕事としていること、 そして注釈の中身 ── 機械が数以外を扱うという見通しと、 機械は何も生み出さないという限定 ── が一世紀後の計算機の議論にそのまま引き継がれたことである。
その後と死
注釈の出版後、 彼女は体調を崩しがちになり、 次の数学の仕事を構想しながら実現しなかった。 1852年、 癌のため36歳で死去した(MacTutor)。
Ada 言語
1970年代、 米軍は自軍のソフトウェアが何百もの言語と方言で書かれていることを問題視し、 新しい高水準言語の要件をまとめて競争にかけた。 勝ったのは Jean Ichbiah が率いるフランスのチームで、 政府側のチームが言語をラブレスにちなんで Ada と名付けた(Ada Resource Association)。 頭字語ではない。 最初の版は1980年代初めの Ada 83 で、 長期間使われる組込みシステムなど、 信頼性が重視される分野を主な対象としている。
よくある質問
- エイダ・ラブレスは何をした人か
- 1843年、Babbage の解析機関を解説した Menabrea の論文を英訳し、原文の約3倍の長さの注釈を付けて発表しました。注釈は機械が数だけでなく記号や音楽も扱いうると論じ、最後の Note G でベルヌーイ数を計算する手順を表にしています。
- ラブレスは世界最初のプログラマなのか
- Note G の表はしばしば最初のコンピュータプログラムと呼ばれますが、評価は分かれています。Allan Bromley は彼女に解析機関のプログラムを書く知識はなかったと論じ、Thomas Misa は注釈を Babbage との緊密な共同作業の産物とし、Hollings・Martin・Rice は De Morgan との往復書簡の分析から彼女の数学的能力を低く見る従来の見方に反論しています。
- Note G のベルヌーイ数の計算は誰が考えたのか
- Babbage は1864年の自伝で、注釈の題材の選択と問題の代数的な展開は彼女自身のものだったが、ベルヌーイ数の部分だけは手間を省くため自分が引き受けると申し出た、と書いています。彼女はそれを送り返し、Babbage の重大な誤りを見つけて訂正を求めたとも書いています。
- プログラミング言語 Ada の名前の由来は
- 米軍の要件をもとにした競争で選ばれた言語に、政府側のチームがラブレスにちなんで付けた名前です。頭字語ではありません。最初の版(Ada 83)は1980年代初めに Jean Ichbiah の率いるフランスのチームが開発しました。
出典
Note A の Jacquard 織機と音楽の記述、Note G 冒頭の「originate」の一文とベルヌーイ数 B7 の表
注釈を勧めた経緯、ベルヌーイ数の部分と誤りの指摘、注釈が原文の約3倍の長さであること
Stein(1985年)・Bromley(1990年)・Swade(2000年)・Toole(1992年)・Misa(2016年)の評価の整理、De Morgan の1844年1月21日の書簡、往復書簡の年代の訂正
一次資料Turing, A. M. Computing Machinery and Intelligence. Mind, October 1950, pp. 433-460
第6節「Lady Lovelace's Objection」
二次資料Charles Babbage's Difference Engines and the Science Museum — Science Museum, published 18 July 2023
1833年6月の出会いと、数以外の記号や音符を扱う可能性という評価
一次資料Ada Overview — Ada Resource Association
Ada は頭字語ではなくラブレスにちなむこと、Ada 83 と Jean Ichbiah
一次資料Intro to Ada, Part 1 — Ada Resource Association
米軍の要件と競争、政府側チームによる命名
両親の別居、Mary Somerville、1833年6月5日の出会い、1835年の結婚と1838年の伯爵位、注釈が AAL の署名で出たこと
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